吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

011 : Amaturus eram.

 舌打ちと共に、男達が手を放す。ラトは信じられない思いのまま振り返り、その先に見えた姿に、思わず心が熱くなるのを感じた。
(――母さんが来てくれた)
 目許と言わず、顔全体が熱を帯びる。ラトは男へ伸ばそうとしていた手を下ろして、愕然とした。
(殺そうとした……?)
 こんなにも熱いのに、震えが止まらない。全てに自覚があった。ラトは確かに今、かけら程の悪意も持たずに、背後にたつ男を殺そうとしていたのだ。
 それでも、タシャが歩み寄ってくるのを見ながら、ラトは懸命に足を突っ張って立っていた。震えが止まらない。けれど緊張を解く訳にはいかない。ラトは自分自身の考えを汲んで、ぐっと拳を握り締めた。
 タシャが近づいてくる。たった今までラトの周りを囲んでいた人間たちが、何も言わずに道を開ける。彼らが、やってきた占い師に恐怖を感じていることは、火を見るより明らかだ。
 ラトはあらわになった三つの目で、じっとタシャを見つめていた。体の震えに、視界も揺れる。それでもラトは、視線をそらさなかった。――そらせなかったのだ。タシャが本当に味方だと、確信するまでは。
「ラト」
 マカオの町の、占い師が言った。
 ほんの一瞬、ラトの視界に戸惑いが映った。隠しようの無い、迷いの色だ。しかしそれが何であるのか、ラトは考えなかった。考える前に、視界が歪んでしまったからだ。
 声無く、涙がこぼれ落ちる。
 タシャが味方かどうかなど、見定めるような余裕は無かった。ラトはその時賭けていた。誰に何と言われようと、この人だけは味方でいてくれるはずだ、と。
 この人ならわかってくれるはずだ。ラトには、タシャの思いを裏切るつもりなど無かったのだと。ただ町の子供達のように、ありふれた幸せを感じたかっただけなのだと。
 不意にタシャがしゃがみこみ、ラトのことを強く抱いた。それで涙に音が付く。ラトは心を壊してしまったかのように、大声で泣いて涙をこぼした。しがみついたと言った方が正しいだろう程に、力いっぱい抱き返す。
(母さん、どうしよう。今、僕は……)
 次から次へと、恐怖が浮かび上がる。人々の言葉も、目の前で荒れ狂う川も、全てが今は恐ろしい。しかしそれ以上に恐ろしいものが何なのか、ラトはしっかりと自覚していた。
(母さん、僕は今、人を)
――人を殺そうとした。
 何のためらいも無かった。そのことが恐ろしい。
 ラトの髪を、タシャが撫でる。タシャも今や、周りの人間のことも、眼前に流れるタネット川のことも、視界には入っていないようだった。そのことが嬉しくて、ラトは息をつく間もなく泣き続ける。そんなラトを抱きしめたまま、タシャが途切れ途切れに話しかけた。
「ラト。お前、どうしてここにいるの。何故、こんな事になったの」
 何でも良い、とにかく言葉をかけてもらえることが嬉しかった。タシャの質問に答えようと、ラトは何度も泣きやもうと試みる。それでも全てはしゃくり上げる音に飲まれて、一向に声にならなかった。
「そのボウズがいけねえんだよ、なあ」
 場の空気に絶えられなかったのだろう。先ほどから口を出すだけで、ラトから必ず距離を取っていた男が一人、声を上げた。
「ただでさえピリピリしてるところにさあ、一人でふらふらやってきて、そんでさ」
 タシャがラトから少し体を離し、男の方へと振り返る。占い師の時の目だ、と、ラトは思った。人の心の奥底まで見通すような、鋭く、深い視線。その鋭利なナイフが向けられていることに気づいていないのか、男は相変わらずペラペラとしゃべり続けている。
「いきなりな、その気味が悪い三つ目をあらわしたんだよ。それまでは全く別の姿をしていたのに。それってほら、化け物のすることだろ? だから俺たち、思わず……」
 タシャはくだらなそうに男へ背を向けて、もう一度ラトを強く抱きしめた。
「大丈夫よ。大丈夫。泣きやんで、ラト」
「母さん、ごめん……なさっ……」
「もういいの。おまえは優しい子だもの。きっと私やニナのことを心配してくれたんでしょう? ――ラト、お願いがあるの。泣き止んで、母さんの手伝いをしてちょうだい。大仕事がね、まだ残っているの。どう、できる?」
 タシャは静かに立ち上がると、ラトに手を伸べ微笑んだ。ラトはしっかりとその手を掴んで、自分の顔を、びしょ濡れになった袖で拭う。どうせまた雨で濡れてしまうのだが、そうすることでほんの少しでも気が晴れた。しゃくり上げる声も、そろそろ止められそうだ。
 ラトは、「うん」と三度も頷いた。
 タシャが何も言わず、今度は川の上流の方へと視線を向ける。人々はやはり慌てて道をあけ、固唾を呑んで、町の占い師と三つ目の少年を見つめていた。
「――私達はこれから、丘を川の上流へと登ります」
「お……丘を?」
「無茶だ、止した方が良い。あんたもわかってるだろう。登る間に崩れかねないぞ」
 タシャはそれを聞くと、黙ってただ首を横に振った。
「そうかもしれません。しかし、他に道が無いのです」
「普段の大雨の時は、そんなことはしないじゃないか」
「いつもと同じでは、この雨には太刀打ちできませんから」
 タシャがきっぱりとそう言った。一方でラトは不安を押し隠すようにタシャに寄り添って、そっと彼女の顔を見上げる。占い師の時の顔。占い師の時の瞳。いつものラトなら、タシャのそんな表情が大好きだった。
(だけど、今日は、なんだか恐い)
 町の人間が、恐る恐る道を開け、無言で町へと帰って行く。
「私達はしばらく帰りません。ニナをお願いしますよ」
 何の感情も読み取ることのできない、それは静かな声だった。そこの知れない深い視線の先に、今は何が映っているのだろう。ラトには、うかがい知ることなどできなかった。
 
 ぬかるみに足を取られて、ラトは思わず前へと転ぶ。もともとびしょ濡れだった服が、今度は泥だらけだ。地面に打ち付けた膝をさすっていると、前を歩いていたタシャが振り返り、「大丈夫?」と静かに尋ねた。
「大丈夫。ちょっと打っただけ」
「あともう少しだから、頑張って」
 ラトは頷いて、やっとのことで立ち上がる。タシャが手を伸べたので、二人は手を繋いで、再び歩き始めた。
「母さん、あの、……ごめんなさい」
 返事は無い。歩くほど不安な気持ちが増してきて、ラトはただ、静かに目を伏せた。
 どこへ行くのだろう。ラトに、何が手伝えるというのだろう。
 二人は川沿いをずっと登って、いずれ深い渓谷の入り口までやって来た。ここまで来ると、ラトも知らない土地になってくる。この辺りには草が生えていないから、羊番でも来る必要が無いし、日頃から稀に崖崩れが起こるということで、来ること自体を禁じられていたのだ。
 日頃から危険な場所だというのなら、こういう時こそ近寄ってはならないのではないだろうか。ラトの歩みが戸惑いがちになると、タシャもそれに合わせ、少しゆっくりと歩みを進めた。
「ここにはね、地脈というものがあるの」
 タシャが突然そう言ったので、ラトは危うく、雨の音に紛らせて聞き逃してしまうところだった。
「地脈……?」
「そう。大地の力の集まるところ。よく覚えておきなさい、ラト。こういう所には、必ず精霊の長たる者が生きている。もしかするとおまえは、もうその存在を感じたことがあるかもしれないね。私達は、その力を借りに来たの」
「それじゃあ、その長に頼めば……この雨は止むの?」
 タシャは再び、しばらく黙っていた。何かを懸命に考えているようでもあった。それから首を横に振ると、はっきりこう告げる。
「わからない。――ラト、私にはね、精霊の姿が見えなければ、しっかりとした声も聞こえないのよ」
 聞いて、ラトは弾かれたようにその場へ立ちすくんだ。精霊の声が聞こえない? それなら今まで、一体どうやって占いをしていたというのだろう。
「だって、じゃあ、……」
「私達占い師にできるのは、星を読み、風を聞き、大地に語りかけることだけ。占い師はそこに大自然の姿を擬人的に見て取って、精霊と呼んでいるに過ぎないの」
 目眩が起こりそうだった。実際ラトには、タシャの言っていることの半分も理解することはできなかったが、その時脳裏に、つい先ほど町の人間たちと交わした言葉が思い出された。
――精霊と話すなんて、その程度のこと、母さんやばあさまだってやってたじゃないか!
――その程度のこと、だって?
 精霊と話ができることなど、珍しくないと思っていた。明日の天気を訪ね、草のよく生えている土地を聞き、風の向きを語る。ラトにとっての精霊は、それ程身近なものだったのだ。
「先の大ばあさまにおまえのことを聞いた時は、嘘だろうと思っていたわ。だって精霊というのは人間が勝手に考えた概念であって、会話を交わせるような意志のある固体だなんて、考えたこともなかったもの」
 タシャが再び歩き始める。優しく手を引かれ、ラトも思わず足を動かした。
「だけどおまえと暮らしてみて、わかったの。おまえは夢を見ているのでも、幻と話しているのでも無かった。精霊は本当にいて、私には見えない次元で生きている。その核心が持てた。だからこうして――地脈を頼ってみようと思ったのよ」
 タシャは嘘などけっしてつかない。その事はよくわかっていた。第一、この状況で嘘をつくことに意味など無いだろう。
(僕は、ただの人間だ。三つ目があるだけで、だけど――)
 ラトを見ていて、初めて精霊の存在を信じただなんて。ラトが今まで話していた相手は、そんなにも曖昧な存在だったのだろうか。そう思った瞬間、ラトは自分が爪先から一気に消えてしまったような錯覚に陥った。どうも自分までもが、精霊と同じように曖昧な存在であるように思えてならなかったのだ。
(ツキのことも、高原の風のことも、もしかしたらただの夢なんじゃないかとも思ったけれど)
 心ががらんどうのようだった。ただ、足だけは腕を引かれるまま歩いている。ふわふわと、なんだか視界がおぼつかない。
(今は、僕自身のことの方が夢みたいだ)
 夢のようだ。ラトは思った。寝ても覚めても視界に何も映らない、闇の中を進む夢。
(それが僕という夢なのなら、――)
 それは、悪夢に違いない。
「さあ、……着いたわ」
 言われてラトは、ゆっくりと視線を上げる。
 目の前にそびえていたのは、崖に隠され何年も守られていた、岩の割れ目という名の社だった。

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