吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

003 : In anulum inire potes!

 ラトが禍人の言葉を聞いてから、三日が過ぎた。その間タシャの話した『客』が訪ねてくることはなかったが、それが逆にタシャの心痛となっているようだ。いつもと変わらないよう振る舞ってはいるようだが、それにも時々違和感がある。そのことにはニナも気づいているようだったが、あまり深刻にとらえているようには見えなかった。
 タイミングが悪かったかもしれない、とラトは溜息をつく。すると楽しそうに小さなタンスを漁っていたニナが、にこにこ笑ってラトを見た。
「町では最近、わざと前髪をくしゃくしゃにするのが流行っているの。お兄ちゃん、前髪は長いから、スカーフで固定したら大丈夫よ。あとね、朝ごはんの時に卵の白身をとっておいたわ。ねえ、シャツの柄はどっちが良い?」
 ラトは困ったように二つのシャツを見比べて、色の大人しい方を選んだ。
「シャツなんて、いつもので良いじゃないか」
 ラトが呟くと、ニナが憤然と振り返る。
「だめよ! お兄ちゃんのことは隣町から来た行商人の子どもっていうことにするんだから、少しは良い物じゃないと。行商人の子はあちこちに行くから、すごく流行に詳しいの。いつもの服なんかじゃばれちゃうでしょ」
「そうかなぁ……」
 一つ年下の妹の、行動力に気圧された。ラトは頬を掻いて、言われるままにシャツを変える。ニナが友達のお兄さんから借りて来たシャツだ。どうやらラトより年上なのか、袖が少しだぼついた。
 事の起こりは二日前だ。
 ――友達になんてなれないと、思い込んでいるだけなのさ。
 家に帰ってからも、どうしてもあの禍人の言葉が忘れられず、ラトはニナに相談してみることにしたのだ。町へ行ってみたいが、どうすれば上手く三つ目を隠せるだろう。どんなふうに振る舞えば、自分のことを気づかれずにすむだろう。ニナなら、町のことをよく知っている。きっといい知恵を貸してくれるはずだと思った。
 ニナは始めこそぽかんとした様子でラトの話を聞いていたが、唐突にラトの手を掴んで、こんな事を言った。
「明後日なら学校は休みだし、母さんも夜まで帰ってこないわ。私が案内してあげる!」
 その言葉がラトにとって、どんなに心強いものだったか。しかし当日になって、ラトは妹の沸き立つように晴れやかな顔を見ながら、不安を胸に募らせていた。
(母さんにまで、内緒にすることはなかったかもしれない)
 無断で町に降りて、もし、その事が町の誰かに知れたら。そしてそれを、タシャに言いつけられでもしたら。そう思うと、臆病風が吹いてくる。だがここ数日のタシャは驚くほど神経質で、何を言っても全て否定されてしまうような気がして、遂に何も言わないまま当日になってしまったのだ。
「……心配になってきた」
「何言ってるのよ、お兄ちゃん! ほら、こっちを向いて。上手くセット出来ないわ」
「うわっ、なに、このネバネバ!」
「卵の白身よ。これで髪をセットするの」
「卵は食べる物だよ。このまま歩いたら、臭くなってきそうだ!」
「ちょっと年上の男の子はみんなやってるわ。ほら。お兄ちゃん、鏡を見て。なかなか似合っているじゃない」
 血の気のひくのがわかったが、今更、引き返すことはできないようだ。
 
 ラトとニナの向かったマカオの町は、決して大きな町ではない。古くから牧羊の盛んな地域で、その羊の毛と、それを加工した毛織物で細々と生計を立てて来た、どちらかといえばこぢんまりとした町である。町中を歩いているのは町の人間と、そうでなければ毛織物を買い求めにやって来た商人だが、正直なところ、人よりも牛や羊などの家畜が歩いている量の方が多いくらいだ。それでも自分とその家族以外が住んでいる町という空間は、ラトにとって魅惑的でならなかった。
 ラトは出来る限りなんでもない風を装ったが、それでも、外に出ている二つの目は絶えず辺りを見回している。隣ではニナが若干緊張気味に、両腕を振って歩いていた。家を出るまでは大はしゃぎでかしましかったニナだが、ラトが町に出て、全く何事もなく家へ帰ることができる保証などないことは、彼女もわかっているのだろう。ラトはそれでも不安めいたことを一言も口にしない妹に、深く感謝した。
 二人は町をあちこち見ながら、ニナが普段通っている学校へと向かうことにした。途中で美味しいと評判らしいパン屋の前を通ったので、ラトは自分の小さな財布からコインを取り出し、焼きたてのパンを二つ買う。ニナが学校へ通うようになり、ラトも同じように小遣いをもらいはしたが、使いどころがないために、小銭が溜まる一方だったのだ。気をよくしたラトはもう一つ買おうかとニナに言ったが、優しい妹はくすくす笑いながら「もうお腹がいっぱいよ」と答えた。
 学校は町の外れにあった。木造の、比較的大きく新しい建物だ。数年前に町の人間が協力して作ったのだと言う。町の中央からその建物への通りは人々に踏み固められ、細いながらも立派な道になっている。精霊の声が聞こえるラトには、いつもその道を通って行くのだろう、多くの子供たちの楽しげな声まで聞こえる気がした。
「ニナ」
 どこかから声が聞こえて、ラトははっと顔を上げた。慌てて声のした方へ目をやると、同年代の子供たちが数人、不思議そうにラト達を見ている。男の子供もいれば、女の子供もいる。どうやらみな、ニナの学校での友人のようだ。
「おはよう」
 笑顔でニナはそう言ったが、どこか緊張気味なのがラトにも伝わってきた。勿論、町の子供の視線を一身に受けているラトも、同じ心境ではあったのだが。
 ニナはラトの顔を見上げて、それから、こんなことを言った。
「あのね、彼、商人の家の子なの。今日はお父さんについて来たんだけど、暇だから町の子と一緒に遊びたいんですって。ね、いいよね」
 早口にニナがそう言った。ラトは一度生唾を飲み込んで、それから、おずおずと話しかける。
「そうなんだ。昼間は父さん、仕事で忙しいから……退屈なんだ」
 本当は町さえ見ていられるなら、ラトは退屈など知らなかっただろう。町に出られたことだけでも嬉しいのに、友達まで作ろうというのは焦り過ぎだろうか。ラトは自問した。それでも、今日を逃して次があるのかと考えれば、自然と心は決まる。
「いいよ」
 一人がそう言ったので、ラトは思わず自分の耳を疑った。あまりに簡単に、望んだ答えが返ってきたからだ。
「遊ぼう。何する?」
 ニナが嬉しそうに、ラトを振り返る。ラトも笑って、輪の中へ入っていった。
 彼らと遊ぶのは、楽しかった。
 間違ってもスカーフがずれてしまうことなどないように、細心の注意を払わなければならなかった。大人が近くを歩く時には、なんとはなしに顔を背けた。
 それでも。
   ひとつありおしふたつおしなみ
   山の小鬼の散歩道
 影踏み鬼に、かくれんぼ。毬つき遊びの時には歌も教わった。
   食われちゃならんと子供は歌う
   おまえの仲間になってやる
   代わりにあの島動かせば
   おまえの仲間になってやる
   代わりにあの川飲み干せば
 歌い終わるころには、いつの間にか太陽は、随分西へと移動を始めていた。
「おまえ、意外とやるな」
 言われたラトはついていた毬を空高く上げ、うまく受け止めてからにやっと笑う。毬つきもかくれんぼも、ラトは大概他の子供達よりも上手くこなしてみせた。リズムに合わせれば精霊達が良い風を運んでくれるし、木の葉を寄せて良い隠れ場をつくってくれるからだったが、その事は秘密にしておく。
「そろそろ日が暮れるわ。帰った方が良いかもしれない」
 ニナが言ったが、ラトは取り合わなかった。もう一度だけかくれんぼをしたら、それから帰ろうと約束する。
「いーち、にーい、……」
 数を数える声がし始めると、子供達は一斉に広場から散った。ラトも例に漏れずその場を立ち去って、辺りを見回し隠れる場所を探す。ニナもなんだかんだと言って参加したようで、すぐに姿が見えなくなった。
 広場を出ると、町の小道を通り抜ける。それがどこへ続いているのかはわからなかったが、気持ちの良い風が通り抜けていたからだ。しかしその風も、少し進んだところで止んだ。
 そして、ラトはふと息をのむ。視線の先に、見たことのある少年が立っていたからだ。
(――ホロだ!)
 ラトの姿を見るなり、立ち竦んだまま身じろぎもしなかった少年。その少年がラトを見て、今、二つの目を大きく見開いたように見えた。ラトは顔を背けて、その場を即座に走り去る。少しでも立ち止まれば、ホロにも、かくれんぼの鬼にも、きっとすぐに見つかってしまうだろう。
 ホロは、ラトに気づいただろうか。一瞬のことだ。どうか気づかずにいてくれたらいい。――もし気づいていたとしても、黙ってさえいてくれたなら。
 このかくれんぼが最後なのだ。これが終わって鬼に見つかってしまえば、明日からはまた、いつもと変わらぬ一日が始まるのだ。
(もう少し、もう少しだけ)
 ただの、町の子供でいられたなら。
「ほら、私の言うとおりだっただろう」
 背後から、聞いたことのある声がした。ラトは変わらず走っていたが、急に自分がどこを走っているのだか、わからなくなってしまっていた。声はそのラトの周りを巡るように、話を続ける。
「お前は思いこんでいただけさ。その額の目さえなければ、おまえは町の子供達と何も変わらない。言っただろう。私は良い方法を知っているよ。町の人間からはその目が見えないようにする、秘密のおまじないだ」
(――禍人)
 全身に鳥肌が立っていた。そのうち走るのが辛くなって、ラトは肩で息をしながら立ち止まる。それでも相変わらず、ラトには自分がどこに立っているのかわからなかった。辺りがぼんやりとして、気分が悪くて仕方ない。
「町で、友達ができただろう」
 ラトは静かに頷いた。声は嬉しそうに、笑う。
「また、町で遊びたいだろう」
 禍人の声を初めて聞いた時の、切羽詰まったタシャの顔を思い出す。しかし一瞬のことだった。ラトはやっぱり頷いた。声は笑った。笑いながら、目には見えない――いや、外に出た二つの目では見ることのできない声そのものが、ラトの周りを渦巻くようにぐるぐると回っているのが、何故か手に取るようにわかった。
「そうだろう、そうだろう」
 声が言った。ラトは震えを抑えるように自らの右手で左手を握りしめ、しばらくの間身じろぎもせずにその声を聞いていた。その間も禍人は焦らすように笑うばかりで、一向に話を進めようとはしない。
 禍人は待っているのだ。ラトにはそれが、よくわかった。
 待っているのだ。ラトが、自ら問いかけるのを。
(この目を隠すまじない……。そんなものが、本当にあるのなら)
 奥歯を噛みしめる。そうしてラトは、一歩前へと踏み出した。
 その勇気が、命取りだった。
「この目を、隠す方法があるの?」
「あるとも!」
 声が歓喜に満ちていくのが解る。その異様なまでの喜びにラトは心底脅えたが、自分が口にしたことを後悔することはできなかった。この目を隠すことができたなら。他の町の子供達のような、当たり前の日常を手にすることができたなら。
 長年積もらせてきた願望が、退くことを許さなかった。
 ここで退いてたまるかと、ラトの心に潜んでいた負けん気が奮い立ったのだ。
「ようやくお前が聞いてくれた。ああ、ああ、知っているとも。私はその方法を知っている」
 恍惚とした声音で、禍人がそう繰り返す。
「……それなら、教えて。僕が普通の人間になるためには、一体どうしたらいいの?」
「今にもお前に教えたい。だが、その為にお前は、私と契約をしなくてはならない」
「契約って、何のこと」
「約束さ。お前は普通の子供になる代わりに、その力を私に差し出さなくてはならない」
「力なんて持っていない」
「気づいていないだけさ。だが、好都合だろう? そんな力がなければ、そんな目がなければ、お前は普通の子供になれるのだから」
 それは確かにそうだった。得体の知れない目も、力も、ラトにとっては不必要なものでしかない。望んだ生活と引き替えに、それらを捨てることができるのなら。
「サインを」
「ペンを持っていないよ」
「おっと。それじゃ、失礼」
 声が舞って、ラトの指先を血で滲ませた。別段痛みは無かったが、なんだか急に取り返しのつかないことをしてしまったような思いになって、ラトはごくりと息をのむ。
 欲しいものは決まっている。力でもない。目でもない。欲しいものは、欲しいものは――。
「何を躊躇うんだい。心は決まっているんだろう」
 禍人の言葉に、ラトは首を横に振った。それから指をまっすぐに立て、宙に向かって丸を書く。
 赤い色がくっきりと空に残ったのを見て、ラトは思わず目を丸くした。しかし、それも一瞬のことだ。途端、目の前で小さな光が爆発したからだ。
 ラトは思わず目を瞑り、身構えた。いくらかの風がラトに体当たりして、それからどこかへ流れていく。何処かで鳥の鳴く声がした。このおかしな地には、ラトと禍人の他にも生き物がいたのだろうか。頭は何故か悠長に、そんなことを考える。
 風はいずれ、ぴたりと止んだ。恐る恐る目を開いたラトの右手は、何か複雑な模様のついた紙切れを握りしめていた。
「目を隠したい時、その札を額に貼るといい。おまえはこの町に、何人か知り合いがいるようだね。だがその札さえあれば、ようく見知った人間達の目すら欺くことが出来るだろうよ」
 声がする。周囲の景色が段々と確かなものになってきた。
「ただし、タシャのように強い力を持った者はこういう札の類を嫌うからね。けっして見せてはいけないよ。これの存在を、知られてもいけない」
「わかった。……僕の力というのは、もう無くなったの?」
 聞いて、禍人の声は意味ありげに笑う。それから勿体ぶって、「七日経つうちにはわかるよ」と言い残して去っていった。
 ラトはしばらく、呆然とその場に立ちつくしていた。恐る恐る、額に手をやってみる。
 相変わらずスカーフの下に三つ目の感触はあったが、前ほど心を煩わされることはない。
「見つけた!」
「隠れるのがうますぎよ。今まで一体どこに隠れていたの?」
 背後から子供達の声がする。
 ラトは拳の中の札を隠して、今までの自分では考えられなかったほどの笑顔で、振り返った。

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