うつろい火を抱いて

後編


 轟音と共に稲妻が落ち、貫かれた騎士が倒れた。兜は衝撃にぱっくりと割れ、焦げた髪が異臭を放つ。
「ソーマっ……!」
 名を呼んでみたけれど、倒れた騎士は起き上がらない。失神しているだけなのか、絶命してしまったのか。判断がつかず駆け寄りたくなるが、降り注ぐ矢の雨がそれを許してはくれなかった。
 歩みを止めれば、いい的になる。
 矢の雨と雷が轟くルタ平野は、ヅィルマ魔導兵の詠唱とラーミナ騎士団の悲鳴とが奏でる、不気味な不協和音で満ちていた。
 仲間の血で汚れる草原を、ポワソンはひたすら走る。馬はとうに失った。地を裂くような轟音を発する雷魔法(トニトルス)を恐れ、束の間制御が効かなくなった隙を射抜かれてしまったのだ。愛馬を失い、地を這いずりながらも、ベルトランの元へと急いでいた。
 失ってはならぬ人だ。彼を失えば、一方的な攻撃を受けるこちらの隊は、たちまち烏合の衆となるだろう。
 降り注いでくる矢を剣で叩き斬り、仲間の屍を飛び越える。知った顔だ。否、この東部戦線鎮定軍突撃部隊の隊員で、知らぬ顔などありはしない。数々の死線を共に乗り越えた、かけがえのない戦友たちなのだ。
 強く歯の根を噛みしめて、ポワソンはひたすらに走った。前方にはいまだ見事に馬を御し、指示を飛ばすベルトランが見える。さすがに彼の声が届く範囲は、隊の乱れはみられなかった。矢雨のあとに突撃を仕掛けたヅィルマ騎兵を、鮮やかに返り討ちにしている。
 しかし、その背後からベルトランを狙っている弓兵がいることに、ポワソンは気がついていた。ベルトランとの隣に滑り込むようにして走る。彼に向って、一本の矢が真っ直ぐに飛んで行った。間に割り込む。剣を振った。手ごたえがあった。
「――ポワソン!」
 はっとしたように、ベルトランが振り向いた。
「ベル! 無事ね?」
「こっちの台詞だ! はぐれやがって」
「ごめん。馬を、やられてしまって」
 息を切らしながら、ポワソンはベルトランの隣に立った。
「まさか、こんなことになるなんて」
 また飛んできた矢を切り落としながら、ポワソンが訪ねた。遠くでヅィルマ魔導兵の詠唱が繰り返されている。
「ヅィルマめ、ここまで大きな『封呪の陣(カシェ)』を敷くとはな。しかも大量の伏兵のおまけ付きだ」
 エストラル領を攻めているあいだ、少しも応援を送って来なかったヅィルマ領。その不気味さは感じていたけれど、手強いエストラル領兵に立ち向かうさなか、ヅィルマ領の動向まで探ることは難しくあった。
 ヅィルマ領は、これ以上ないほど用意周到だった。
 エストラル領からヅィルマ領へ向かうには必ず通るルタ平野に、『封呪の陣』という罠を仕掛け、またそれを斥候に覚られぬよう『隠者の幕(ハーミ)』を重ねていた。侵略者を万全の態勢で迎え撃つ準備をしていたのだ。自らの領地を守るために――エストラル領の死で、時間稼ぎをしたのである。
 眉間にしわを寄せながら、ベルトランが答えた。
「ジェモーとスコルピオの隊は、大部分を失って既に敗走。ヴィエルジェの魔導部隊は抗うすべを持たないから、早々に戦線離脱させた。俺たちも撤退したいところだが、生憎伏兵に包囲されて退路を断たれちまっている」
「……なんてことなの」
「別働隊もおそらく伏兵にやられてるから期待はできない。包囲される前に伝令はとばしたから、予備隊が来て退路を確保してくれるのを期待したいが――」
 雷鳴が轟き、一瞬視界が白んだ。何かが地に倒れる音がする。後ろを振り向けば、また一人の兵が崩れ落ち、肌を黒く焦がしていた。目を逸らす。痙攣する姿を、見ていられない。
「――それまで、もつかどうかね」
「副隊長とあろう者が弱音など吐くな」
 ぽろりとこぼれた不安を、ベルトランに窘められる。
「じゃあ、どうするの。予備隊が来るまで矢と雷から逃げ回れっていうの? 逃げ腰のところに突撃でも受けようものなら、それこそ全滅よ!」
「そうならないために、俺やお前がいるんだろうが」
 ベルトランの叱咤に、ポワソンははっとした。
「自分を保て、ポワソン。今出きうる最善のことをしなくては」
 いつの間にか、体が震えていた。手痛い敗戦が、数多の仲間の死が、恐ろしかったのだ。
 ようやくそれに気が付き、取り落としそうになった剣の柄を、改めて握りしめる。
(……恥ずかしい)
 片手で頬を張り、己に活を入れた。
(指揮官の一人のくせに、自分を見失うなんて)
「すまない、ベル。もう大丈夫だ」
「いいね。そうこなくっちゃな副隊長」
 ベルトランがからりと笑う。戦場でその泰然とした様をみる度に、ポワソンは思うのだ。
 ああ、大丈夫。私たちは――必ず生き残るのだ、と。
 どんな絶望的な状況下にあっても、希望を見いだすことができる。夜空で輝く『創天の臍(ノヴリ)』のように、決して揺らがぬ彼の姿は、全ての隊員の標なのだ。
 ベルトランにつられてポワソンも、不思議と頬がゆるんでくる。
 体の震えは、止まった。
「隊長、ご命令を」
「お前は生き残った歩兵らを指揮。盾を掲げて密集隊列を組め。ヅィルマ魔導兵の詠唱終了には留意せよ。雷魔法の気配があれば速やかに散開し被害を最小限にくい止めろ」
「了解(バルザフ)!」
 気合いを入れるように、腹から声を出した。
 生き、戦い、必ずその喉笛に食らいてやる。祖国を潤すため、民の幸福のため。我がアヴニール王国のひとつの礎として、繁栄の足がかりになってみせる――
(屈してなど、やるものか!)
 ポワソンが剣を掲げ、いまだ混乱の中にある仲間を集めようとする。
 まさに、そのとき。
「あれは……?」
 西の空を見上げながら、ベルトランが呟いた。
 ポワソンもつられて視線を上げれば、照る陽に霞む西の彼方に、一点の黒いしみが穿たれている。それは徐々に大きくなり、近づくほどにその雄々しい姿と、纏っている鮮やかな色が見て取れた。
 鋭い眼が閃く頭部は大鷲。前肢の鋭い鉤爪で空をかき、しなやかな体躯は金色の獅子に似る。力強く両翼ではばたくたびに隆々とした筋肉がしなり、火の粉を散らす朱色の帯を生み出した。――そう、炎である。
「まさか、」
 誰もが空を見上げる中、ポワソンが呟いた。
「――エテ?」
 ラーミナ騎士団の隊章に描かれる大鷲と獅子の化身のような、炎を纏った獣(グリフォン)の姿。目を凝らせば、その背には確かに小さな少女が跨がっている。
 少女の唇が僅かに動くと、天の怒りのようなグリフォンの咆哮が、争う者らの頭上に落ちた。刹那、グリフォンの纏う炎が猛る。はばたきが朱の風を生み、二枚の翼が四枚、六枚と広がってゆく。
 少女の背からもうひとつ、炎の獣が頭をもたげた。それは鋭い嘴を開き、雲ひとつない蒼天に、大きな産声を響かせた。
 それは誰もが恐れた、『炎魔の大鷲(イーフリグル)』の奇怪な咆哮ではなかった。心の琴線に触れるような、切なく、繊細な、うつくしい音色であった。
「見ろ。そしてあの子が現れた意味をよく考え、心に刻め」
 ベルトランが空を仰ぎ、目を細める。
「あれが『常闇の口(テネブル)』なんて呼ばれる悪しき魔女に見えるか? 俺には――天の使いたる『美しき翼を持つ乙女(スパルナ)』に見えるね」

 ***

 ――エテの体も、母の翼も燃えていた。
 けれども感じるのはやわらかな熱だけで、体の内から迸る魔力が、今は心地よくさえある。指先が炎の帯を紡いでゆき、たなびく炎に細い指を引っかければ、ほつれる糸のようにゆるくほどけた。
 『封呪の陣』などでは、『常闇の口』と恐れられたエテの迸る魔力を押さえることなどできはしない。しかし今、エテは忌避していたその力を、初めて自らの意志で求め、御している。
 エテの頭にあることは、たったひとつの純粋な意志であった。その一途な思いが、エテの纏う炎の姿に変化をもたらしたのだ。
 奇怪な咆哮は、竪琴の如く軽やかなうつくしい音色に。
 荒れ狂う火柱は、エテの細かな意志まで察してくれる、古き良き友の如くたおやかに。
(たすける。――かならず)
 胸の内で猛る炎の意志が、心得たとばかりに熱さを増した。
 戦場を馳せる騎士たちの中に、求めるふたつの顔を見つける。傷つき疲れた彼らの姿が、エテの心を揺さぶった。
 手を伸ばす。今すぐにでも彼らに触れ、確かな命の鼓動を感じたかった。
(エテ、ふたりとの約束、ちゃんと守るから)
 だから、
(生きて、帰ってきて!)
 細い指で天を指し、空をまっすぐ切り裂くように、息を止めて振り下ろした。

 大地は裂け、炎の波が馳せてゆく。
 蜘蛛の子を散らすようにヅィルマの兵が退避して、炎に切り開かれし真っ直ぐな退路を、アヴニールの騎士らが駆け抜ける。死の満ちたる戦場から、帰るべき場所へ帰るために。
 雷魔法は炎に喰われた。細かな灰が空を汚し、しかし母の両翼が、けぶる景色を明瞭にして。光差し、命ある者の路を照らし出す。
 今、幼い少女のひとつの決意が、未来へ向かう一歩を踏み出したのだ。

 円を描きながら滑空すると、赤い螺旋が尾を引いた。炎は徐々にエテの内へと還ってゆき、地に足を付けるころには、すっかり消えてなくなった。
 翼をたたんだ母の背から、エテはずるりと滑り落ちる。初めて自分の意志でもって魔力を操った。その大きな負荷に、小さな体は悲鳴を上げていたのだ。
(――くるしい)
 息が切れていた。汗が吹き出して、蹲って顔を伏せるエテの鼻先から、ぽたりと一滴、踏み荒らされた草原へと落ちてゆく。そんな娘を心配する母はぴたりと寄り添い、小さく喉を鳴らしながら、胸に抱いてくれた。
(だいじょうぶよ)
 母の優しさは嬉しかったけれど、一度抱きしめ返したのち、愛しい翼に別れを告げた。
 覚束ない足に懸命に力を込め、エテは何とか立ち上がった。視線を上げれば、傷付いた騎士たちが、エテと母を遠巻きに囲んでこちらを見ている。それらの視線に、エテはほんの少しの違和感を覚えていた。蔑みでもなく、敵意でもないような。なんとなくこそばゆく、落ちつかなくなる感触だ。
 その意味をエテは分からなかったし、この瞬間は知ろうとも思わなかった。そんなことよりも、求めてやまない、彼らの存在があったからだ。
「エテ!」
 ひとりの男と、ひとりの女が、急いで駆け寄って来てくれる。彼らはそれぞれ、走りながら鋼の小手を取り外し、被っていた兜を投げ捨てて。転がるそれらの表面で、きらりと刹那、陽が光る。
 眩しい。目を細め、しかしきちんと彼らを見たくて、エテは大きな目を見開いた。
 だというのに、どうしてか視界は滲み始めてしまって――ぐいと手の甲で眦を拭い、近づく彼らに向かって歩き出した。
(立って。ちゃんと歩くの!)
 ふらつきながらも、エテは一歩、足を踏み出した。
 言わなくては。
 何を想い、何を欲し、何がたいせつなのか。
 ふらつくエテの支えとなるよう、母が寄り添って歩いてくれた。その肩に手を付きながら、エテはまた一歩、前へと進む。
 二人との距離があと数歩となったところで、母はエテから離れ、その場に座る。
――行っておいで。
 ちらりと母を振り返れば、彼女の黒々とした瞳は、確かにそう語っていた。
(ありがとう――ママ)
 送り出してくれる優しい母。彼女がいたからこそ、エテは今、新しい一歩を踏み出せるのだ。感謝の気持ちでいっぱいになりながら、エテは再び前を向く。
 求め伸ばされた小さな手は、しっかりと握り返された。
 強く引かれて、抱きしめられた。まずはポワソン。続けざまにベルトランに。どちらも鎧を付けたままだったから、コチリと硬い抱擁だったけれど、それでもエテは嬉しかった。
 生きて。触れ合って。だからこそ、約束を果たすこともできる。
「エテ、なんて無茶を……! 大丈夫なの?」
 ベルトランに抱き上げられたままのエテに、ポワソンが心配そうにそう尋ねる。頬に添えられる手にほんの少しすり寄って、エテはこくりと頷いた。二人のそばにいることで、上がった息も落ち着いていくような気がする。
「お前が来てくれたおかげで、多くの命が助かった。――ありがとう」
 もう一度強く抱きしめながら、ベルトランがそう言った。「私からも、感謝を」とポワソンも、胸に手を当て敬礼する。
 すると、それを見ていた周りの騎士らも、姿勢を正し敬礼した。一斉に踵を打ち鳴らす音に、エテは驚き、ほんの少し戸惑った。
 彼らは、このときエテを『常闇の口』だなどとは、すでに思っていなかった。命の恩人である幼き『英雄』を、心から称賛していたのだ。
 ゆるく首を振り、エテはベルトランの抱擁をとき降ろしてもらう。
「だって、ふたりともエテと約束したでしょ?」
 右手を上げ、その証のラーミナの葉のお守りを示した。
「だからね、」
 草原を、一陣の風が駆け抜ける。それはエテの腕に巻かれたお守りを、かさりと揺らして飛び去って行く。
「いなくならないで。生きていて」
 また、二人の顔が滲んでしまう。今度は拭う前に、瞳から大粒の涙となってこぼれ落ちる。ただ悲しいばかりの涙ではなかった。エテの中の様々な情動が、涙となり、溢れ出し――
 うつりゆらめく、しかしとても温かな感情を抱きながら、エテは、初めて彼らの前で微笑んだ。
「エテに、『帰るべき場所』をつくってくれるんでしょう――?」
 待っているから。
 いつまでも、何年かかろうと、二人の言葉を信じるから。
 ぼろの服のポケットをまさぐり、その気持ちの証となるものを取り出した。ベルトランとポワソンが、揃って目を瞠る。緑の輪が、小さな少女の手にふたつ乗っている。胸の透くような青いかおりが、ふわりと彼らの間に漂った。
「エテ、それは……」
――これはね、私たちの国では約束のお守りなんだ。
――やくそく?
――そう。――戦に出る前、家族や友人と送り合う、『必ず帰るよ』とか、『また会おう』っていう約束のお守り。
 紛れもなく、ラーミナの葉のお守りであった。ベルトランらが野営地を発ったあと、エテが一生懸命作ったものだ。
 べそをかきながらも、エテは二人の腕にお守りを巻いた。初めて作ったそれらは少し不格好だったけれど、エテの心を編み込んだものだ。それがほんの少しでも、彼らに伝わることを願いながら。
「ベルトランさん、ポワソンさん」
 呼べば、二人は屈んでエテと視線を合わせてくれる。手を取って、握りしめる。
 二人の温度が、伝わってくる。放したくない。失いたくない。
 ならば自分から、たった少しでもいい。歩み寄らなくては。
 震える唇が開き、言ノ葉を紡ぐ。今度はきちんと声に出し、『たいせつ』な二人に伝わるように。
「――おかえりなさい」

 ***

 時が流れ、激動の時世、季節がめくるめく移り変わったのち。
 三人の約束は長い年月を経てもなお忘れられることはなく、うつろう小さな蝋燭の火のように、消え去ったりはしなかった。
 茜の光差す町の中、夕食の材料を抱えて歩いて行く。ああ、そういえばバターはまだ残っていたかしら、明日は早く起きてシーツを洗わなくちゃなどと、とりとめもないことを考えながら、足取り軽く家路に着く。
 扉をノックし、キィと蝶番を鳴らして押し開く。
 家の中から明るい声が出迎えてくれ、暖炉の柔らかい熱と、何より微笑みかけてくれる、大好きな人たちの笑顔に囲まれて。
 エテは確かに、こう言うのだ。
――『ただいま』と。
――『うつろい火を抱いて』にたい杏

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