うつろい火を抱いて

中編


「起きそうもないか」
「ええ……よく眠っているわ。このままにしてあげましょうか」
「そうだな。慣れない幕屋に入れるより、外の方が落ち着くだろう」
 星降る夜空の下、母グリフォンの翼にもたれて眠るエテにそっと毛布をかけながら、ベルトランとポワソンは声を顰めた。傷ついた母子は、今は深い眠りに落ちたようで、穏やかな寝息を立てている。起こしてしまわぬよう、二人は足音を忍ばせ、そばを離れた。
 かすかな虫の音と、歩幅の違う足音だけが聞こえていた。足早に先を行くポワソンは、俯きながら歯の根を食いしばる。
 不意に、ぽんと頭に手を置かれた。ベルトランだ。ぐしゃりと手荒く、女にしては短く刈り込んだ髪を乱されるが、足を止めただけで顔を上げる気にはなれなかった。
「何をしょげてんだ」
 問われ、両の拳をぎゅっと握る。
「……私、あの子を傷つけたわ」
 口内に溜まった後悔の吐息を長く吐き出し、ポワソンはようやく振り返った。
「ねえ、ベル。私たちは祖国のためならんと誓いを立て、騎士になった。富国に努め、そして民の盾となるために、剣を取った。そうよね?」
「そうだな」
「祖国のための領地拡大は……敵国を蹂躙することと同義。私たちと同じ立場の兵士だけじゃない、何の罪もない、ただ日々を生きていた人々の暮らしさえぶち壊すの。それは覚悟の上だったし、勝ち取った領地を復興させ、再び豊かにすることも使命だと思っていたわ。そして、ラーミナ騎士団ならそれができると自負していた」
 立っていられなかった。ポワソンは膝を折り、その場に蹲る。彼女の短い髪に触れていたベルトランの手が、宙で置き去りになった。
「その私の考えを、私の理想を……あの子に押し付けてしまった。とんだ傲慢だわ。あの子の気持ちをちゃんと考えもせず、つまらない決まり文句をなすりつけたのよ! そのせいで、」
――故郷なんかあったって、嫌われ者の『常闇の口(テネブル)』が帰る場所なんか……どこにもないもの。
「あの子の孤独を浮き彫りにした。「帰る場所がない」だなんて……子供に言わせてしまった」
 自己嫌悪で嫌気がさす。陳腐な誓いを述べたあとのエテの冷えた目が、目蓋の裏から離れなかった。寂しそうにまつ毛を伏せて、か細い声で、己を卑下して――
(私……最低だわ)
「騎士団一の女傑が、ずいぶん弱気じゃないか」
 軽い口調で話しかけられ、むっとした顔でベルトランをねめつけた。
「ふざけないで」
「ふざけてるのはお前だ」
 ランプもない暗闇の中、はたりと凪いだ風が、ベルトランの声を強調する。
「ぐらつくな。俺たちは前を向き、ただひたすらに己の信念を貫かなければならないんだ。そうでなければ、俺たちはただの殺戮者だ」
 ぐっと、言葉に詰まる。唸るような反論は、緩く吹き出す風に攫われる。
「だから、」
 もう一度、ベルトランはポワソンの頭をぐしゃぐしゃにした。「よしてよ」と顔を上げたけれど、そんな文句など歯牙にも掛けず、ベルトランはにぃと笑って見せる。
「お前の言う『傲慢』を突き通してみろよ、ポワソン」
「なんですって?」
「あの子を傷つけた傲慢な信念を、あの子のために貫いてみろ」
 刹那、その意味を計りかねたけれど。
(ああ、そうか――私は、大馬鹿者だわ)
 それこそが、我が使命。
 茨はあれど、確かな道を作るのだ。
(あの子に今、一番必要なものは――)

 ***

「将来はきっと占い師になっておくれ。村のみんなが、お前や私たちを頼るようになる」
「公国の軍属に就くのもいいんじゃないかい。アヴニール王国のきゃつらを倒したら、我が孫娘は国の英雄になるぞ」
 ほんの小さな炎の花を出しただけで祖父母は大喜びし、かさついた手でエテの小さな頭を代わる代わる撫でた。谷のように深い皺を刻んで、にんまりと微笑んでいる。
 幼いエテには、それは単なる優しい微笑みに見えていた。
 おばあちゃんとおじいちゃんに可愛がられている。愛されている。そう、何の疑問もなく思っていた。祖父母の笑顔に含まれた、私欲に走る薄暗い皮算用にも気が付かない。
「エテが大きくなったら、きっとうちの稼ぎ頭だねぇ」
「お父さん、エテはまだ八つですよ」
 母が困ったように言葉を漏らすが、祖父はふんと鼻を鳴らす。
「なに、あと三、四年もすれば立派な魔女になる」
「僕たちは、エテが健やかに育ってさえくれればそれでいいよ。家を継いで羊飼いになるのも、占い師になるのも、この子の自由だろう?」
 父の反論に、祖父のにんまりと弧を描いていた祖父の唇は、途端にへの字に曲がりだす。
「マリカ、ウェインも……なんと愚かな。せっかく魔力を持って生まれたのだ、それを生かした職に就き稼いでもらわなければ困る。そうでなければ、せっかくの才能が無駄だぞ」
「確かにエテにはすばらしい才能がある。でも、未来は僕たちが決めるものじゃなく、この子のものだろう?」
 両親と祖父母との、そんな口論は日常茶飯事だった。そんなときは決まって、エテは母のエプロンに顔を埋めた。お日様と土のにおいがする、ほっこりとした母の体温。それに包まれると、刺々しい空気に、少しの間だけ耳を塞ぐことができた。エテの細い肩に回される母の手は温かい。エテの将来について、何かに憑かれたようにうっとりと語る祖父母から守ってくれる優しい手が、エテの大きな見方だった。
 それを失ってしまったのが、去る寒い雪の日のこと――
 その日も、エテの両親と祖父母は、エテの将来について口論をしていた。自分に魔法の修行を執拗に迫る祖父母に、エテは次第に恐怖感を抱くようになっていた。
(どうして、みんなこわい顔をするの)
 両親にも、祖父母にも、笑っていてほしかった。エテに魔力があると知る前のような、穏やかな日々に戻れたなら。そう願わずにはいられない。
 激昂する祖父母が恐ろしくて、両親の背に隠れながら、エテは耳を塞いでいた。
(おねがい。仲良くして。争うのいはいや、こわい……!)
 エテの中で何かが満ち、迸り、熱き奔流となり。
 堰を切り、暴れ出す。
 ああ――なんだか、とてもあつい。
 ふと、閉じていた目を開ければ、赤き翼が視界を塞いでいた。
 目の前でちらつく火花に、一瞬途切れた意識が還ってくる。黒い塊がふたつ、エテの前に立っている。いやな臭いが鼻についた。
 黒い固まりがふたつ、ぐらりと倒れる。その向こうに、祖父母のひきつった顔が現れた。
(おじいちゃん? おばあちゃんも、どうしてそんな顔をしているの?)
 嫌な臭いが、強さを増す。いったい何が燃えているのか。視線を下げる。
 よくよく見れば、塊は、人の形をしているようだ。
(……ママ? ……、パパ?)
 エテの周囲で、小さな炎の花が開き、弾けた。臭いの正体。肉の、焼ける臭い――
 わななくエテの唇が、息を吸えずに青くなる。赤き炎はエテの唇とは対照的に色鮮やかで、生まれ出たことを歓喜し熱い両手で家中を舐め回す。
 赤き翼の『主』が、エテの背から頭をもたげる。火傷に苦悶する祖父母が目を瞠った。
「まっ、魔物……! 『炎魔の大鷲(イーフリグル)』!?」
「占い師になるなんてとんでもないぞ……エテは、『常闇の口』だったのか!」
 悲鳴をあげながら、祖父母が家を飛び出してゆく。「誰か……誰か! 『常闇の口』だ!」などと絶叫する祖父の声は、エテにはすでに聞こえていない。
 膝から崩れ落ち、倒れる黒い塊に手をのばした。母と思われる方に触れる。指先が少し、さらさらと煤を散らす。
 エテの手が、黒く汚れた。
 乾いた喉の奥から、悲鳴が突き上げた。
 エテの細い首を千切らんばかりの――そのまま命をも吐き出してしまいそうな慟哭であった。
 同時に、自由を得た『炎魔の大鷲』が、嬉々として咆哮する。激しい火柱を上げ、家の屋根を吹き飛ばす。
 炎が全ての音を飲み込み、エテの耳には己の悲鳴すらも届かない。
 エテは無意識のうちに、目を塞いでいた。
 猛る炎が父と母の形を奪い、灰に変えてゆく様を見たくなかったのだ。

 ***

「――っ!」
 悪夢の手を逃れ、エテはがばりと跳ね起きる。いやな汗が噴き出していて、つうと額をすべる感覚が不快だった。それは顎の先からぽたりと落ちて、ベッドにしていた母の翼に染み込んでゆく。
 ベルトランとポワソンと話しながら、眠ってしまったようだ。いつの間にか燦々と降り注いでいた太陽は沈み、替わりに青い月と星たちが、静謐な光を落としている。
 力んでいた体から少しずつ力を抜き、エテは再び母の翼に体を預ける。そのときふと、母の翼ではない何かに包まれていることに気が付いた。
(あ……毛布)
 いくら母のそばとはいえ、外で眠るエテに気を遣ってくれたのだろう。ずり落ちてしまったそれをたくしあげ、エテは頭から被ってみた。
(……あったかい)
 母のそばも温かいけれど、エテの体を包む毛布もまた、同じように温かい。
――気がついたかい! ああ、もう本当によかった!
(ポワソンってお姉さんに、あやまらなくちゃ)
 最初に、この毛布を差し出してくれた人だ。疑うばかりで、一言もお礼を言っていない。
(あと……ベルトランって男の人にも、お礼言わなくちゃ)
 母の翼に巻かれた包帯を細い指で撫でながら、エテは昼間のことを思い出す。
――俺は嬢ちゃんと、嬢ちゃんが必死で守ろうとしている『ママ』を傷つけない。お前らを助けたい。それだけだ。
(信じてみても、いいのかな……? ハイネ村の人たちみたいに、エテを……まもの扱い、しない?)
 ひとりの人間として、みてくれるだろうか――?
 夜風が吹き、エテのもつれた細い髪を揺らす。ひやりとした風の腕が、エテの僅かながらの眠気も奪い飛び去ってゆく。今夜はもう、眠れそうにない。
 傷を癒すために深く眠った母を起こさぬよう、エテはそっと起き上った。毛布を体にきゅっと巻き付けてから、それを踏まぬようにゆっくりと歩き出す。
 夜露に湿った草原は、足を踏み出すたびに、さくさくと小気味よい音がした。ふわりと青い香りが鼻先をくすぐり、エテは深く息を吸い込む。ほんの少しの間だけ、僅かな自浄作業をしてみたつもりだった。
「――っ、ふ、」
 喉の奥に引っかかったままの、もやもやとした感情を飲み込んでしまいたかった。けれど、飲み込むどころかそれは溢れる一方で、塩からい涙となってこぼれ落ちる。たまらずに蹲り、しかしそれすら億劫で、エテは地面に寝そべった。
 頬にざらつく大地の肌を感じた。鼓動が聞こえる。遠くの野を駆ける獣の気配だ。湿った土のにおいはかぐわしく、草花は夜露をまとって瑞々しい。遠くの茂みからは夜鳴鳥のうつくしい声が、耳のそばでは虫の音が。力なく手足を放りだす、エテの耳に響いてくる。
(エテは……どこに帰ればいいの? ハイネ村? ママと隠れていた森?)
 生の息吹の満ちる夜が、エテの心を余計にかき乱した。そっと耳を塞いだけれど、低くざわめく命の声たちは、ちっとも鳴り止みはしない。
(――だれに、『ただいま』って言えばいいの?)
 目を閉じ、にじんだ涙が頬をつるりと滑ったときだ。
「おい、そんなところで寝たら風邪ひくぞ」
 急に聞えた男の声に、エテはのろりと視線を上げた。涙でにじんだ視界に、男が持っているランプの橙色が混じって、余計に歪んで見える。何度か瞬きしてみると、ようやくこちらを見下ろしている二つの顔が見て取れた。
「……ベル、トラン、さん」
「おお、覚えてくれたのか」
「ポワソン、さんも」
「こんばんは」
 名を確かめるように呼んでみれば、二人は嬉しそうに返事を返してくれる。
「寝る前に嬢ちゃんの様子を見に行ったら、ママグリフォンの所にいなかったからさ。どこに行っちまったのかと思ったよ」
 ベルトランとポワソンは、エテを挟んで腰をおろした。すると少し驚いたように目を瞠る。エテの涙のあとに気が付いたのだ。そんな二人の視線を逃れたくて、エテは頭から毛布を被って顔を隠した。
 ひと呼吸分の、沈黙。エテが頬の内側に溜まった唾を飲み込もうとしたとき、ベルトランの大きな手が、頭にそっと乗せられた。
「エテ」
 名を呼ばれ、体が緊張で硬くなる。なぜか、とても胸がどきどきと高鳴っていた。
(『常闇の口』じゃない、さえずりでもない。今、エテの、名前を――)
 母グリフォンは言葉を持たず、喉の奥で優しく鳴きながらエテを呼んでいた。慈しんでくれるその鳴き声が大好きだった。けれど、名を呼ばれることが、こんなにも心を揺さぶられるものだとは。
「せっかく寝っ転がるなら、上を見てみな。立ってるときよりも、ずっと広い空が見える」
 ベルトランの手が、少しだけ毛布をずり下げる。恐る恐る彼を仰ぎ見たエテは、彼の背後に広がる夜空に、思わず言葉を失った。
 どうして今まで気付かなかったのかが不思議なほど、夜空は輝いていた。俯いてばかりのエテには、彼らが地面に落とした光の影しか見えていなかったのだ。
 紺碧の夜空には、幾千もの星が輝いている。白く光るもの、赤い光を帯びるもの。大小様々な宝石がちりばめられたようで、見上げていて眩しいほどだ。月は、微笑んでいる。淡い月白色で夜を照らし、星の瞬きを抱擁していた。
「なあエテ、あの星の名前を知っているか? あれは空の中心となる真北を示す星で、季節が移り変わり、星座がめぐっても、決してそこから動かない星なんだ」
 ベルトランがエテの隣に寝転がり、空で一番明るく輝く星を指さした。
「……しらない」
「あれはな、『創天の臍(ノヴリ)』というんだ。まあ、俺たちで言う、ここだな」
 今度は自分のへそを指さして、ベルトランはにやりとして見せる。
「……空の、おへそ?」
「おう。その『創天の臍』の瞬き方で、明日の吉凶を占う『占星術師(ドゥラハル)』もいるんだぞ」
「へええ? おへそで、占いを?」
 自分のへその辺りをさすりながら、エテは眉をしかめた。
「へんなの」
「だろ? へそで占いしようなんて、みょうちきりんな奴がいたもんだ」
 くっくと笑いながら、ベルトランは次に両手を空に翳した。流れる夜風を捕まえるかのように、両の掌を握り締める。
「それからな、俺の故郷の港町には『風売り(サジバンナ)』っていう、海風(サジ)を捕まえて売る奴らもいるんだ」
「風をつかまえるの? どうやって?」
「さあなぁ。魔力のない俺にはさっぱりだ」
 からからと笑いながら、ベルトランは捕まえた風を解き放つように掌を再び開く。
「世界は、まだまだ知らないことで満ちている。なぁ、エテ?」
「ん……そう、だね?」
 どう返事をしたものか分からずに、エテは曖昧な返事を返し、再び夜空を仰ぎ見る。
「じゃあさ、エテ。これは知ってるかしら?」
 今度はポワソンがエテの手を取り、寝そべっていたのを助け起こしてくれる。「おいで」と言ってそのままエテの手を引いて、すぐそばにある背の高い雑草が茂る草むらへといざなった。
 ポワソンはある背の高い草を選び、手を伸ばす。
「この葉の名前はね、『ラーミナの葉』というの。私たちのラーミナ騎士団の名の由来となった葉なのよ」
 夜風にふうわりと揺れる花穂と、しゃんと背筋を伸ばしたような芯のある茎。そこから生える細長い一枚葉を、ポワソンはおもむろにちぎりとった。
 ラーミナの葉を器用に三本に裂くと、手早くそれを編み始める。鮮やかな手つきにエテが見とれているうちに、三本の葉は一本の紐のようになった。
「さあ、手を出してエテ」
「……こう?」
「うん、いいよ。動かないでね」
 差し出した手首に、ポワソンが編んだ葉を巻き付け、葉の両端を結んだ。上手く調節して作ってくれたのか、それはエテの細い手首にぴったりと合う。慣れぬ飾りに戸惑うエテを見ながら、ポワソンは「似合うよ」と満足そうに頷いた。
「これ……なあに?」
「これはね、私たちの国では約束のお守りなんだ」
「やくそく?」
「そう。――戦に出る前、家族や友人と送り合う、『必ず帰るよ』とか、『また会おう』っていう約束のお守り」
(かならず、帰る――)
 エテの小さな胸が、熱をはらんでドクンと跳ねた。
 同時に、対照的な冷えた澱が、心の底で浮き上がる。
「なら、これ……返す。エテには、交換し合う人、いないもの」
 帰りを待っていてくれる人は、だれもいやしないから――
 沈んだ声で返すエテがラーミナの葉のお守りを外そうとすると、ポワソンがそれを遮った。そのままきゅっと、エテの手を握り締める。
「ねえエテ。それを外さずに、少し私の話を聞いて?」
 柔和に微笑む、それでいて真剣さを帯びたポワソンの瞳に、夜空の星が映っている。湖面のような彼女の瞳を覗きながら、エテは訳も分からず頷いた。
「あのね、エテ……私たちと、一緒に来ない?」
 熱をはらんだ鼓動が、走り始める。
「エテはまだ小さいんだもの、師を持ち、その力の使い方や、まだあなたが触れたことのない多くの物事を知らなくちゃ。……エテのことを悪く言う心の貧しい人もいるかもしれない。すぐには上手くいかないかもしれない。けど、私は諦めないよ。『常闇の口』なんて蔑称と、正面から戦ってやる」
「そんなの、そんなの……むりよ」
 ポワソンの手の中で、エテの手が震えた。
「エテは……本当にまものだもの」
「……どうしてそう思うの?」
「だってエテは……ひどいのよ。本当のパパとママを焼いちゃったし、おじいちゃんたちがいくさで死んじゃったかもしれないのに……もう怖いことされない、追いかけられなくてすむって安心してるの。だから、きっと……エテはまものなの。だれも受け入れてなんてくれないわ!」
 エテは自らの苦悩をしぼりだすように、ポワソンに訴える。
 瞳に溜まった涙が、ぽろりとこぼれた。それは次から次へと溢れ出し、繋がれた二人の手に落ちる。
 ポワソンの手を振りほどこうとした。けれど、彼女は決して、エテの手を離さなかった。
 そこへ、もうひとつの大きな手が添えられる。
「魔物は自分の行いを悔いたりもしないし、泣いたりもしない。身をていして大切な誰かを守ろうとなんてしない――エテは間違いなく人間の、心の優しい、ただの小さな女の子だよ」
 じくりと、肩の矢傷が痛みよりも、揺れる情動に熱さを増したように思う。
 涙がもう一粒、ベルトランの手に落ちた。
 ああ――喉につかえていたものが、涙と共にゆっくりと溶けだしてゆく。
「そのラーミナの葉に誓おう。私たちが必ず、エテが安心して暮らすことのできる国と仲間を作る。エテの新たな故郷を――『帰るべき場所』を作る」
 輝く夜が滲んでしまって、目の前の二人の顔も定かでない。けれど、おぼろげに見える彼らの目元は、確かに微笑んでいて。
 戸惑うエテの手を解き、今度はベルトランが、その小さな手に何かを乗せた。ポワソンとエテが話している最中に、彼も作っていたのだ。
「これは、お前の『ママ』に」
 ポワソンが作ったのより、いくらか不格好だけれど。
 それは確かに、ラーミナの葉のお守りであった。
「もちろん、お前の大切な家族も一緒だ」
 言葉が出ない。口を開いて出てくるのは、ただ嗚咽する声のみだ。
 ベルトランの武骨な手が、不器用に涙を拭ってくれる。それから、ポワソンが優しくエテを抱きしめた。
 ほっこりとした体温と、太陽と土のような、優しい香りと。ほんの少しだけ母に似た、鼻をくすぐる甘いにおいがしたように思う。
「私たちは必ずエテのもとに帰ってくる。あなたに『ただいま』を言うわ。だからいつか――あなたも私たちに『ただいま』って、言ってくれると嬉しい。そうしたら、私たちがあなたに『おかえり』を言うから」
 熱いものが、喉に、鼻に、目の奥に、込み上げて。
 頷く。それだけで、精一杯。
 生の息吹が満ちる夜。様々な命の奏の中に、エテの泣き声がこだました。

 ***

「――ねえママ。聞いて」
 小さな手を掲げると、母はそれにすり寄った。ふかふかした羽毛に、エテの細い指が埋もれていく。
「エテ……ママが助けてくれなかったら、きっと今ごろ死んでいたわ」
 ハイネ村を追い出され、賞金稼ぎ(シャスール)に狙われて。怖い思い。痛い思い。……心が固く凍りつくことを、たくさんされた。
 そうして行き倒れた森の中で、この母グリフォンに出会った。大きな翼が、エテを害する全てのものから守ってくれた。
 だからこそ、エテはこうして生きている。
「ママ……エテね、ママの子になれて、ほんとうによかったと思っているの。だいすきだよ」
 逞しい胸に抱きついて、深い羽毛に顔を埋めた。胸の奥で、母がクルル……と鳴いている。娘を慈しんでくれる、優しい呼び声。エテの大好きな、母の声だ。
「ハイネ村のこと以来、人間がこわくてしかたがなかった。でも、そうじゃない人たちがいたの。エテを……『常闇の口』と知っても、受け入れてくれる人がいたの」
 手首に巻かれた、ラーミナの葉のお守り。そこだけ、不思議と熱を帯びているような気がした。
「エテ……もう一度だけ、信じてみたい。でも、ママともはなれたくないの。……一緒に、来てくれる――?」
 母が一度、大きく翼を広げた。それからエテを包み込む。黒々とした彼女の瞳が、全てを許すかのように、ゆっくりとまばたきをする。
 そうして娘にしか通じぬさえずりで、クウゥ……と小さく、こう返事をした。
――思うようにおし。私は必ず、愛しいお前のそばにいる。
 答えはとうに、用意してあったのだ。
 泣き腫らした目に、再び熱いものが込み上げる。
「エテは……きっとだれよりも幸せものね。信じられる誰かが、たくさんいるんだもの」
 ベルトランがくれたラーミナの葉のお守りを、母の足に巻き付ける。しっかりと葉の両端を結ぶと、エテは自分に巻かれたお守りを並べてみた。
 つながること。つながりたいと思うこと。
 それが、こんなにも心を温め、慰め、そして再び前を向く強さを与えてくれる。
「ありがとう、ママ――」
 
 ***

 明くる日、エテは母の身動ぎを感じ、目を覚ました。エテの体を包むように伏せ、翼の盾で娘を守ろうとしている。
「ママ、なに? どうしたの?」
 警戒に強張る母の首筋を、落ち着かせるように撫でてやる。するとクゥゥ……と小さく返事を返しながら、母は少し翼をずらして外を覗かせてくれた。
 土埃に塗れた軍靴が、忙しなく行きかっていた。軍馬の蹄が見え、興奮気味な嘶きが聞こえる。兵と馬らの足音が低く地鳴りを起こし、なにやら不穏な空気を醸し出していた。
「ジェモーとスコルピオの隊は俺に続け。ヴィエルジェは魔導兵を率いて後方から援護しろ。リオンとカンセールの隊は別隊を率いてカラント川を渡河後、敵後方へ展開。斥候から魔導兵が控えているとの報告を受けているからそれを叩け」
 低い声を轟かしベルトランが指示を与えると、各将校らが敬礼を返す。その表情に昨日のような人懐っこさは微塵もなく、まさしく騎士然としている。隣に立つポワソンでさえ、鋭利な視線が掲げる剣そのもののようだ。
 その光景を見ていると、なにやら体がうすら寒くなった。ざわざわと足元から背へ、腹へ、首へと、子虫が這い上がるような感覚がする。
 戦だ。必然的に伴う『死』の気配である。
(戦いに行くの? ベルトランさんも、ポワソンさんも……ちゃんと、帰ってくる?)
 ――私たちは必ずエテのもとに帰ってくる。あなたに『ただいま』を言うわ。
 その約束の証であるラーミナの葉のお守りに、エテは知らぬうちに触れていた。
 母の翼から出ると、足は自然とベルトランの方へと動き出す。しかしその途端、野営地を発つ騎馬隊の列に阻まれ、その姿を見失ってしまった。
 多くの兵の前に立つ彼には、到底たどりつけそうにない。その内にベルトランの号令が飛び、騎士たちが前進を始めた。土埃に草原の蒼さがくもり、エテはこほりと、小さく咳込む。
 再び陽の元に草原が蒼さを取り戻したとき、ベルトランらの姿はそこになかった。彼方の地を駆ける隊列の足音が、かすかに聞こえるのみである。
(……行っちゃった)
 とぼとぼと母の元に戻ると、エテは蹲った。膝を抱きながら、ベルトランらが発っていった方を遠く見やる。
 ちゃんと帰ってくるだろうか。怪我をしないだろうか――様々な心配事が、エテの頭の中を堂々巡りする。
 昨日交わした約束は、確かにエテと彼らをつないだ。
 それが、もう断たれてしまうかもしれない。
 そう考えただけで、エテの心はぎゅうとしめつけられるのだ。
(へんなの)
 からからに乾いた喉では、うまくつばが飲み込めない。息苦しさを覚えながらも、エテは唇を真一文字に結んだ。
(昨日は二人のこと、疑ったり怖がったりしていたのに)
 ざわつく胸に手を当てる。
(どうして、こんなに心細いの?)
「ねえ、君――」
 かけられた声に、エテははっとして顔を上げた。 
 見れば、一人の若い騎士が立っていた。エテを、もしくは母グリフォンを怖がっているのか、手にきつく握りしめた何かが、拳の中で窮屈そうにしわを刻んでいる。
 母がエテの横にぴたりとついて、若い騎士を鋭い瞳で射竦めた。彼はごくりと喉をならしてつばを飲み込んだが、しかし彼の中のある種の使命感が、その場を逃げ出すことを思いとどまらせている。
「……だれ?」
 そう返すエテの声色は硬い。見るからにエテらを恐れる彼の態度は、エテにも警戒心を抱かせる。
 勇気を奮い立たせるかのように、若い騎士は拳を胸に当て、背筋を伸ばして名乗りを上げた。
「僕は、この隊の衛生兵をしてるトロー・オルコット。隊長と副隊長から、君宛の手紙を預かったので届けに来た」
 所々つかえながらも言い切ると、トローは握りしめていた手紙をエテにずいと差し出した。
 エテは恐る恐る手をのばしてそれを受け取ると、丁寧にしわをのばす。そうしてようやく見た手紙の中身に、エテは目を瞠った。ベルトランとポワソンそれぞれの文字で、ただ一言だけが書かれていた。
 「いってきます!」、と――
「今朝方、我が領地となったエストラル領の隣、ヅィルマ領の関所から兵が発ったと情報を得た。南北に長いエストラル領は、ルタ平野を東に突っ切るユィット街道を行けばヅィルマとの関所はすぐそこだ。……敵が、目と鼻の先に迫ってる。隊長たちはヅィルマ兵を迎え撃つべく、早々に兵をまとめて野営地を発たなくちゃいけなかったから、君に挨拶していけないことが心残りだと言っていたよ」
 状況を説明してくれるトローの言葉を、エテは半分と聞いていなかっただろう。ベルトランらのたったひとつの言葉が、心に刺さるようだったからだ。
(いってきます……って、エテに言ったの?)
 小さな口の中で音無く言葉を転がして、エテはその意味を噛みしめる。
「……ありがとう。たしかに、受け取ったわ」
 返事を待つトローに上の空でそう返すと、彼は任務達成にほっと息をついていた。『常闇の口』のそばに長いは無用とばかりに、そそくさとその場を立ち去ってゆく。
 透明な風が吹き、手首に巻かれた約束の証をかさりと揺らす。風の誘いに視線を向ければ、その先には見覚えのある背の高い雑草が踊る、緑の茂みがあった。
(……エテも、ちゃんと言わなくちゃ)
 さらさらと、緑のさざ波が鳴いている。
 エテがそれを心の深いところで望んでいたのだと、見透かすような音色であった。

 エテの背丈に届くほど高い、緑の茂みに踏み込んだ。
 ふうわりと揺れる花穂を付けた草の、細長い一枚葉をちぎり取る。
 エテの口が動いた。声は出さない。流れる風に気持ちを乗せて、遠い彼らに届くよう、そっと言ノ葉を紡いでゆく。
「    」
 それが本当に言えたなら――
 この胸を焦がす懐郷病は、きっと癒えるのだろう。

「伝令――! 予備隊は直ちに戦闘準備に取り掛かれ!」
 野営地に飛び込んできた負傷兵の叫びに、エテは座っていた草むらから立ち上がった。負傷兵の周りには「何事だ」と人が集まり、不穏な空気が立ち込める。
 息を切らした負傷兵がずり落ちるように馬を降りると、息も絶え絶えになりながらも悔しそうに大地に爪を立てた。
「ちくしょう……ヅィルマ領の奴ら、エストラル領が俺たちに落とされる間に、周到な準備をしていやがったんだ! ルタ平野に、巨大な『封呪の陣(カシェ)』が敷かれていた。こちらの魔導兵が全く使い物にならない! カラント川渡河の別働隊も、ヅィルマの伏兵に足止めされていて――」
 そこまでしか、耳に入ってこない。頭のてっぺんから、冷水を浴びせられたような気がした。強張る体を何とか動かし、ベルトランらが発って行った東を見やる。
 昼過ぎの高い陽が、燦々と降り注ぐ明るい空。雲はなく、透明な青が広がっている。だというのに、東の彼方には稲光が閃いていた。
 ヅィルマ側の魔導兵の術に違いなかった。しかし『封呪の陣』が敷かれているならば、ラーミナ騎士団側にはそれに対抗するすべがない。
 地に伏せる負傷兵にちらりと目を戻し、エテはぞっとした。
(もしかしたら、ベルトランさんも、ポワソンさんも……けが、してる?)
「予備隊は、退路の確保を……早く!」
 そう必死に訴える負傷兵の、団服に染みた赤が目に痛い。背から生える矢が、負傷兵の荒い呼吸に合わせて動く。苦痛に歪む顔が、次第に青く、血の気を失ってゆく。
 衛生兵に抱えられ救護用の幕屋に連れて行かれるのを、エテは何かに憑かれたようにじっと眺めていた。悪い想像ばかりが浮かんできて、頭の中でぐるぐる回る。
 この人のように、ベルトランらも苦しんでいるのか。それとも、さらに悪いことに、もう――?
(いや)
 再び閃いた蒼天を引き裂く稲妻に、集合した予備隊が慌ただしく発ってゆく。
 震えだしそうな手を、きつく握った。
――私たちは必ずエテのもとに帰ってくる。あなたに『ただいま』を言うわ。
――いってきます!
(エテは、もう……)
 じっとなんて、していられない。
 すぐ隣に座す母を仰ぐ。黒々とした聡い瞳が、エテの全てを肯定する。
 羽をむんずと掴み、地を蹴った。母の背に跨ると、尻の下でしなやかな筋肉の隆起を感じた。
「あ! ちょっと君、どこへ行くんだ!」
 誰か聞き覚えのある声が、エテの行動を止めようとしている。トローだ。駆け寄ってくる気配を感じたけれど、振り向かなかった。
 エテの心は、もう、揺らぐことはなかったからだ。
(だれかを失うのは、いやよ!)
「飛んで!」
 エテのかけ声に、母は躍動した。翼で力強い風を生み、エテを乗せた体を天へと運ぶ。
 吹き荒ぶ風に目を閉じること無く、東の彼方を見据えていた。眼下に群がる騎士の姿が、次第に小さく黒い点になってゆく様など、エテの視界には入らない。
 向かうべきは、エテの中で『たいせつ』となった人たちのところ。
 『常闇の口』にさえ手を差し伸べてくれた、優しい人たちのもとである。

Ann & Thor All Rights Reserved.