うつろい火を抱いて

前編


 翼の盾に守られながら、エテは泣いていた。
 追手が来たのだ。松明を掲げ、各々鍬や鋤を持ち、月夜の闇に引きずり出して、エテを火あぶりの刑にするために。
 頬を押し付けた母の胸の奥では、ふいごのような彼女の呼吸が、かすかに恐怖をはらんでいる。刃のような冷たい敵意と夜を焦がす炎に囲まれ、娘と同様に怯えているのだ。
「グリフォンだ――弓兵、打方用意!」
(弓兵? ……今度こそ、エテをしっかりころす気なんだわ)
 男の号令で、幾多の弓弦がきりりと軋みをあげる。飛び上がったところで、矢の雨の餌食となるだろう。逃げ道はない。
 そんな中、彼女がクルル……と、のどの奥で優しく鳴いた。はっとして胸に埋めていた顔をあげると、激しく横に首を振る。
(いや。そんなの、ぜったいだめ)
――私が囮になるから、その隙にお逃げ。
 獣の姿のエテの『母』は、愛しい『娘』にそう告げたのだ。
(戦わなくちゃ。もう家族を失うのはいや。……でも、)
 もし、また魔力が暴走してしまったら?
 そんなエテの逡巡を、男たちが待ってくれるはずもなく。
 「放て!」という号令と同時に、数多の矢が風を切る。懐に抱くエテを守ろうと、母が強く翼を寄せた。
「だめ!」
 風切羽をかき分けて、エテは母の前に飛び出した。
 放たれた矢が、一本二本と、的の大きな母に突き刺さる。苦しげな悲鳴の間に、羽を貫き肉を穿つ鈍い音が、エテの耳のそばで幾度も弾けた。
「やめて!」
 もう一度、声の限りに叫んだ。すると「打方やめ!」の号令で、矢の雨がやんでゆく。しかし。
「――っ」
 最後に放たれた矢が、エテの肩に突き刺さった。傷にこみ上げる熱と痛みとは反対に、体の芯は氷のように冷えてゆく。
(ママは……ぶじ? ママが、ぶじなら、エテは――)
 振り返りたい。頭を動かそうとするけれど、もうエテの体はエテの意志をくんではくれなかった。
(……さむい)
 ぐらりと、体が傾いだ。何も見えなくなる直前、満天の星空が視界を埋め尽くす。高く高く澄み渡り、まあるい月と星屑たちが、エテを静かに見下ろしていた。

 誰かが、額の汗を拭ってくれている。布をよく冷えた水に浸してから、固く絞ってくれたのだろう。ひやりとした感触が心地よかった。
 エテは小さく呻き、重い目蓋を開いた。すると額を拭ってくれている誰かの顔が、ぼんやりと見えてくる。相手は「あっ」と声を上げ、切れ長の目を見開いた。
「気がついたかい! ああ、もう本当によかった!」
 女は満面の笑みを浮かべ、エテの頬を掌で包み込んだ。ごつごつとした、男のような手をしている。しかし手つきは柔らかで、ほっこりとした体温が心地よい。
(……だれ? ここは、どこ?)
 エテが体を起こそうとした途端、左の肩に鋭い痛みが走った。
「ああ、だめだよまだ動いちゃ! 矢が深く突き刺さったんだ、まだひどく痛むだろ?」
 女の手がエテを優しく押し戻し、毛布を肩までかけ直してくれる。そうしてようやく異変に気がつき、ぞっとした。
 そう。毛布だ。エテを包んでいるのは、母の翼ではない。
「ママ!」
 女の手を押しやって、エテは跳ね起きた。左の肩がずきりと痛むが、かまってなどいられない。たったひとりの大切な家族が、そばにいないのだ。
「ママ? ママとはぐれて、グリフォンに攫われたの?」
「ちがうわ。ママが、エテのママよ」
 いまいち納得していないような女から距離をとりながら、エテは状況をなんとか飲み込もうとした。
 簡易的な幕屋の中にいた。足下にはついさっきまでエテが眠っていた布団と毛布、枕元には水差しが。その横には膏薬や包帯が雑然と置かれ、消毒液のつんとするにおいがする。
 それらの物品には、ある紋章が刻まれていた。
 雄々しい獅子と鷲が並び立つ姿を背景に、剣と杖が交差して、その周囲には白いガーベラがあしらわれている。知らない紋章だ。
(……エテをつかまえるために、どこかの傭兵団でもやとったのかしら)
「落ち着いて。大丈夫、私たちは君を害したりしない」
 目の前の女が、エテを落ち着かせようと話しかけてくる。
「私の名前はポワソン。君は? かわいいお嬢ちゃん」
 ポワソンと名乗った女が、にこりと微笑んでくる。それはとても優しげで、うっかりすると信用してしまいそうだ。でも、その言葉の裏は? 笑顔の次は? その先は?
(……エテは、ゆだんなんてしないわ)
 大人の笑顔を信じた結果を、エテはよく心得ている。
 ポワソンの笑顔を拒むように、エテはさらに後ずさる。相手の腰をちらりと見ると、重たげな剣が下げられていた。この至近距離ならば、いとも簡単にエテに襲いかかることができるだろう。
(どうしよう……どうやって逃げよう)
 そのとき、幕屋の外がにわかに騒がしくなった。ざわついた男たちの声の中に、聞き慣れた獣の声が混じっている。エテの胸に、不安の影がさっとよぎった。ギャギャギャと小刻みに鳴くあの警戒音は、紛れもなく母の声だ。
「ママ!」
「あ、こら待ちなって!」
 母に危機が迫っている。エテはポワソンの帯剣や肩の痛みなど忘れて、なりふりかまわずテントの外へと飛び出した。
 照りつける強い日差しに、一瞬、くらりと眩暈をおこす。真っ白に霞む視界が徐々に色を取り戻し、鮮明になって瞳に飛び込んできたとき、エテは悲鳴をあげそうになった。
 剣を抜いた何人もの兵士たちが、傷ついた母を取り囲んでいたのだ。昨晩彼らに射抜かれた傷が塞がりきらず、広げた翼や胸からは、未だに血を流している。男たちを恐れる母が棹立ちになって威嚇するたび、青い草原に奇妙に映える赤い飛沫が、雑な模様を描いていた。
(ママ、今、エテがたすけるから!)
 エテは弾かれたように地を蹴って、母のそばへと行こうとした。一人、二人と屈強な男をすり抜け、押しのけ、最前列へと躍り出る。
 そうしてようやく見えるのは、剣を持った男たちに、母がいじめられている光景だ――エテはてっきり、そうだとばかり思っていた。しかし。
「暴れるなって言ってんだろうが! 頼むから手当てをさせてくれ」
 母に向かい会う男が手にしているものは、剣ではなく救急箱であった。
(……どうゆう、ことなの?)
 呆気にとられるエテのそばで、兵士たちが心配そうに叫んでいた。
「隊長! 危ないから下がってください!」
「魔物を手当てだなんて、何を考えてるんです!」
 剣を抜いて母と救急箱の男を取り巻く者たちは、口々に男の行動を諌めている。しかし当の男は、「放っておいたら死んじまうだろ」と取り合う気が全くないようだった。
 そろりと足を動かして、エテは男の前に歩み出た。母を庇うようにして立つと、母は威嚇に広げていた翼をしまう。ぼろをまとい、薄汚れた少女の姿に、周りの兵士たちがざわついた。
「おい、見ろよ……昨日の女の子だ」
「……グリフォンを庇っているぞ」
 きょとんとしている救急箱の男と、周りの兵士たちをねめつけて、エテは深く息を吸い込んだ。
「ママを、いじめないで」
 母の近くに立つと、血のにおいにむせかえりそうになる。エテの無事を喜ぶような、ロロロ……という鳴き声がひどく弱々しい。それはぐらりと、エテの心を揺さぶった。
 ぬるい風が、足元から這い上がる。小さな上昇気流はエテの髪をふわりとなびかせ、揺れる髪はさながら無数の蛇のよう。耳元で、炎の玉がばちんと弾けた。生れた帯はとぐろを巻いてエテを包み、背中で大きな炎の翼となった。
「ゆるさない。ママを、こんなに傷つけるなんて――」
――おやめ、ちいさいの。
 母が、そう小さく諌めるように鳴いたけれど、エテの怒りは収まらない。兵士たちに向かって一歩踏み出すと、炎の翼の『主』がエテの背からむくりと頭をもたげる。それは耳を塞ぎたくなるような、狂気をはらむ声で咆哮した。
「『炎魔の大鷲(イーフリグル)』……!? この子供、ハイネ村の『常闇の口(テネブル)』だぞ!」
 兵士の誰かが声を上げると、皆が一斉にエテに向かって武器をかまえた。抜き身の剣に、エテの炎の色が閃く。
(『常闇の口』……そうやって、そう呼んで、みんなでエテを狩ろうとする)
 くっと、歯の根を噛みしめた。
 その名で呼ばれる度に、エテの心は抉られる。故郷の家族や隣人たちの亡霊が、冷たい指を伸ばしてくるように感じるのだ。

 ***

「『常闇の口』だぞ。悪しき魔女だ! 殺せ!」
 周りの全てが敵だった。故郷の村を追い出され、村人総出で幼いエテを取り囲み、「火あぶりだ、磔だ!」などと声を荒げた。ぎらつく幾つもの白い目が、エテを恐怖に貶める。そんなときは決まって制御のきかない炎が暴れ、エテが望まぬにも関わらず、村人たちを傷付けた。
 すると追手はただの村人から、次第に賞金稼ぎ(シャスール)へと変わっていった。
「今までずいぶん怖い思いをしただろう。もう大丈夫、こっちへおいで?」
 とある夜、一人すすり泣くエテの所に、一人の男がやってきた。その優しい言葉を信じ、エテはつい縋ってしまった。しかし救いを求めた手を握った男は、エテを乱暴に引きずり倒し、小さな体に馬乗りになった。
「なんだ、ちょろいな。噂程でもない」
 打ち付けた頭が鈍く痛む。白む視界でどうにか捉えた男の手には、一本のナイフが握られていた。木々の隙間を縫って落ちる、青白い月光が閃いて。――殺される。ぞわ、とエテの背筋が粟立った、その瞬間。
 男は、炎に包まれていた。
 炭のようになった男を置いて、エテは森の奥へと駆けだした。
 それから幾日も彷徨い歩き、辿りついた昏い森の最奥で、エテはついに行き倒れた。立ち上がる気力もなく、ただ冷たい地面に突っ伏したまま、這う蟻の列を眺めていた。
 ああ――自分はここで、誰に知られることもなく、たった独りで死ぬのだろう。
 確信した。濃い死臭がしたのだ。生き物が朽ち果て、腐りながら大地へ還るその臭いは、エテはすっかり自分から発せられているのだと思っていた。
 生に別れを告げ、目を閉じる。しかし頭上に感じた何かの気配に、再びなんとか目を開くと、エテは束の間、呼吸を忘れた。
 大きな獣が、倒れたエテを覗きこんでいたのだ。
 鷲の頭部。しなやかな獅子の体躯に、大きな翼――グリフォンである。黒々とした瞳でエテを見降ろし、「なんだこれは」というように、太い首を傾げていた。
(きっと……エテを食べるのね)
 エテはいつの間にか、グリフォンの巣に迷い込んでしまったのだ。
 徐々に近づいてくるグリフォンの顔が恐ろしくて、エテは咄嗟に目を逸らす。しかしそうして泳がせた視線の先に、エテは思わぬものを見た。
(……し、死んでいるの?)
 小枝や落ち葉をたくさん集めて作られた巣の中に、グリフォンの幼獣が横たわっていた。四肢は力なく投げ出され、瞳は濁り、開いた口には蛆が蠢く。
 死臭の出所はエテではなく、この幼獣からだったのだ。
 母グリフォンが、更にエテに歩み寄る。顔を近づけ、鋭い嘴を開いてエテを食べようと――
(――っ?)
 頬に濡れた熱を感じた。
 食べようとしているのではない。エテは、母グリフォンの大きな舌先で、ちろちろと舐められていたのだ。その舐め方は、母が我が子にするような、慈愛に満ちたものだった。
 誰かから与えられる、温かな愛。それはエテが最も求め、焦がれたものであった。枯れたと思っていた涙が、つうと一筋、エテのかさついた頬をすべっていく。
「……ママ」
 そうぽつりと呟けば、『娘』の言葉に答えるように、『母』はロロロ……と、優しく鳴いた。

 ***

 その我が子を喪ったばかりの老いた雌グリフォンが、追手から逃れた森の中で、ぼろをまとって行き倒れていたエテを、殺すでもなく、喰らうでもなく、大きな翼で包んでくれた。我が子として受け入れ、温かな羽毛の寝床と、甘い乳を与えてくれた。
 『常闇の口』と蔑まれ、みなしごとなったエテが得た、唯一の家族であったのだ。
(ママは、エテが……守る。魔力の暴走なんて、もうかまうもんか!)
 エテが指をピクリと動かしただけで、救急箱を持った男の足元で、炎が弾けた。周囲の兵士は青くなりながら「隊長! 下がってください!」と叫ぶけれど、当の本人は仁王立ちのまま動かない。ちらりと、エテは男の腰に下げられた剣を見る。
(救急箱は、きっとゆだんさせるためなんだ。そうやって近づいて、ママを、ぐさりと刺すんだわ!)
「あっちへいって! ママとエテをほうっておいて!」
 男に向かって叫ぶと、今度は男のこめかみ近くで炎が弾ける。「あっ」と、エテは息を飲んだ。炎が男のこめかみを舐めたようで、熱さのあまり顔を顰めたのだ。周囲のざわつきが、途端に悲鳴に移り変わってゆく。
 母を助けるためならば、制御のきかぬ魔力の暴走もいとわない。ついさっきはそう思っていたはずなのに、いざ自分の力が誰かを傷つけると、エテの足は恐ろしさでがくがく震え始めた。
 こわい。――こわい。
(また、エテは、だれかを……ころす、の?)
 ぼろの服を握りしめながら、覚束ない足でなんとか地面を踏みしめる。いつの間にか歯の根を食いしばり、ぎりりと鈍い音を鳴らしていた。
 胸に溜まっていた怒りの泥に、すうっと冷たい、何かが混じる。それはふくれあがって、堰を切って。
 ぽろりと、ひとしずくの涙となって、あふれ出た。
「――全員、剣を収めろ」
 救急箱の男が、低く、命令を下す。
 その有無を言わさぬ威厳に、反論は上がらない。渋々ながら、全員が剣を鞘に収めた。
「下がっていろ。絶対しゃしゃり出てくるなよ」
 一転、水を打ったように静まり返った中で、男は剣に手を伸ばした。何をするのかと警戒しながら見ていたエテだが、次の瞬間、驚きに目を瞠った。
 腰に帯びていた剣をベルトから外し、後方へと投げ捨てたのだ。
(な……なにを、してるの、この人)
 意図が読めず、歩み寄ってくる男から、エテは一歩退いた。
「よう、嬢ちゃん。肩の傷は大丈夫かい?」
 エテの警戒など意に介さず、男は気さくに話しかけてくる。ある程度の距離で歩みを止めてはくれたのの、エテは緊張でもう一歩退いた。背中に、母の胸があたる。
「そう警戒しなさんな。俺は、お前のおふくろさんを手当てしたいだけなんだ」
 言って、男はエテを安心させるように、にかりと笑った。
(――……っ!)
 どきりと、胸が跳ねた。
 『常闇の口』として村を追い出され、賞金稼ぎに狙われて。エテを助けるふりをした大人に騙されて、ひどい目にあったりもした。
 信用できる大人なんていやしない。そう、ずっとずっと思ってきたはずだったのに。
 屈託のない、少年のような笑顔だった。
 年の頃は、三十路を過ぎたくらいだろう。よく日に焼けた褐色の肌には、長い遠征の証か、無精ひげがちらほら見える。刻まれた笑い皺のすぐそばの、えくぼが印象的だった。
(……だまされないもん)
 いっつも隙間風が吹いていたエテの心に、男が入り込もうとしている。心の守りを固めようと、エテは自らを両手でぎゅっと抱きしめた。
(さっきの女の人と同じよ。そうやって笑いかけて、ゆだんさせて、きっとエテとママをころすんだ)
 警戒を解かないエテの態度に、男が困ったように頬をかいた。
「そっか。まだ怖いか? じゃあ、これならどうだい」
 そう優しくエテに語りかけてから、男はさらに身に着けていた鎧や靴すらも脱ぎ始める。そうしてすっかり丸腰になると、改めて救急箱を手に取って、その場にどっかと腰を下ろして胡坐をかいた。
「俺は、アヴニール王国はラーミナ騎士団、東部戦線鎮定軍突撃部隊隊長、ベルトラン・ベリエ! まあまあ冗談も言うし、ほんの少しずるっこすることくらいはある。だけど、絶対に嘘はつかねぇ。卑怯なこともしねぇ」
 よく通る低い声で、男は名乗りを上げた。滔々と述べられる男の言葉が、抜けるように高い青空にこだまする。
「自分で言うのもアレだが、俺ぁ結構馬鹿だからよ。後ろの奴らが騒いでる『常闇の口』だなんて知ったこっちゃねぇし、どうでもいい。でも、俺は泣いてる女の子にはめっぽう弱くてなぁ」
 頭をかきながらにかりと笑う男に、また、胸が跳ねる。
「俺は嬢ちゃんと、嬢ちゃんが必死で守ろうとしている『ママ』を傷つけない。お前らを助けたい。それだけだ」
 くもりない眼が、怯えるエテをまっすぐ見据える。それは威嚇するでもなく、敵視するでもなく。
 あたたかな照る陽のように、優しく、柔らかく、エテのささくれ立った心を慰めた。
 エテは、男から目が逸らせなくなった。
 拒まなくては。大人は怖い。でも――でも、この人は。この人の目は。
(たいよう、みたい)
「まだ怖いってんなら、素っ裸にだってなってやるぜ?」
 そう言って、悪戯っぽく男は笑う。
 エテの腕から、力が抜けた。

「――じゃあ、もうここは、オリゾンじゃないのね」
「ああ。先の戦で領都制圧も完了し、ここオリゾン公国エストラル領は名実ともに俺たちアヴニール王国のものとなった」
「そう……なの」
 ふるまわれた白湯をすすりながら、エテは隣で丸くなって眠る母の翼に肩を寄せた。エテに宥められ、ベルトランの申し出を甘んじて受けた母は、手当を施されて今は大人しくしている。ただ、完全に眠っているわけではない。もし少しでも娘が害されることがあれば、すぐにその鋭い鈎爪で襲いかかるだろう。
(ずっとママと森に隠れてたから……知らなかった)
 ならば、あのエテの知らない紋章は、どこかの傭兵団のものなどではない。オリゾン公国と敵対している、アヴニール王国はラーミナ騎士団の隊章であったのだ。
 視線を落とした先で、白湯が波立った。知らず知らず、ため息が漏れていたのだ。そんなエテの様子に、ポワソンが気の毒そうに眉をしかめ、ベルトランを小さく肘で小突いていた。
「じゃあ、ハイネ村は……? 国境が近かったでしょ。いくさで、なくなっちゃった?」
 ポワソンが後ろめたさからか、さっと視線を伏せる。それだけで、エテは何となく察しが付いた。だからといって、目の前に座る二人を憎む気持ちは、不思議とちっとも生まれてこない。代わりにもやもやした何かが、喉の奥につかえていた。
「そこが、エテの故郷なのか」
 曖昧に唸り、白湯から立ち上る湯気をぼんやり見ていると、ベルトランは僅かに眉根を下げるにとどまった。
「ハイネ村は義勇軍を募り、オリゾン公国の軍に加勢していた。衝突は、避けられなかったな」
「じゃあ、ハイネ村はもうないのね」
「全壊とまではいかないが、ハイネ村の近くでやり合ったからな。物資の徴発も目的のひとつだったが、なにせうちの魔導兵が派手に魔法をぶっ放して――」
「ベル! この、馬鹿、そんな具体的な話聞きたくないでしょう」
 今度こそポワソンに頭をばしりと叩かれ、ベルトランは口を閉じた。「しまった」と大柄な背を丸める姿は、やはりどこか少年じみて見える。
「すまん、俺は昔っから気遣いに疎くてな」
「あやまらなくていいよ。エテ、おこってないわ」
 怪訝そうな二人を見もせず、少しひしゃげた錫のカップの縁をなぞりながら、エテは呟く。たゆたう湯気は、瞼の裏に焼き付いて離れない、立ち上る黒煙を連想させた。
「だって……ハイネ村はもうエテが先に焼いたことがあるから。二人のこと責めるしかくなんてないもの」
 揺らぐ白湯の波間に、赤い幻が映り込む。とろりと混じる炎の陰影を見たくなくて、エテはカップを地面に置いた。厚い草の絨毯と細かな小石にバランスを崩し、カップはぐらりと揺れて、倒れてしまう。
――こいつは自分の親を……ウェインとマリカを焼き殺した! ひっ捕らえろ、次はどんな魔物を呼び出すか知れたもんじゃない!
(いや……もう、聞きたくないのに)
 耳の奥で、難を逃れた祖父母の金切り声が響いた。
――『炎魔の大鷲(イーフリグル)』よ……なんて恐ろしい子なの……!
(おばあちゃん……私に魔力があるって知ったとき、いい占い師になっておくれって、よろこんでくれたのに)
「『常闇の口』ねえ……ハイネ村の西の一画が焼け落ちていたが、それのことか」
 母の翼に顔を埋め、エテはこくんと頷いた。じわりとにじんだ涙が、音もなく羽毛に吸い込まれてゆく。
 『常闇の口』。それは魔物を呼び出すことのできる人間の蔑称だ。一般的な魔導師や占い師といった者たちよりも強い魔力を秘め、常人にはない邪まな心を持つ、魔物の申し子ともいわれている。過ぎた力は災いの象徴とみなされ、見つかれば火あぶりや磔の刑に処される存在だった。
(エテは……まものじゃないわ。みんなと同じ、にんげん。でも、)
 心の中でそう呟き、母の翼にすがりつく。
(この人たちを、ちっとも憎めないのはどうして? おじいちゃんも、おばあちゃんも、ハイネ村の人たちも、いくさで死んじゃったかもしれないのに……)
 ぶるりと、肩が震える。今自分が心の中に抱いている感情が、とてもおぞましいものに思えたのだ。
 時化の海のような、荒ぶる感情の波はない。今はただ、たおやかな陽がおちる昼下がりのごとく、心が凪いでしまっていた。
(今、エテ……安心してる?)
――殺せ! 『常闇の口』は災いを呼ぶ悪しき魔女だ!
 脳裏に狂気めいた祖父母の顔がよみがえる。目を剥き、ナイフを掲げ、蝶よ花よと可愛がっていたはずの孫に襲いかかってくる。
――こんな厄介な孫など……『常闇の口』などいらぬ!
 エテに襲いかかる彼らは、もういない。
 目の前にいる彼らが、戦の名の下に一掃した。
 エテの驚異は、取り除かれたのだ。
(家族がいなくなったのに、よろこんでる? そんなこと考えるなんて、エテはやっぱり、まものなのかな――?)
「故郷の村のこと、本当にごめんね。国同士の争い事に子供たちを巻き込んでしまうことは、本当に心苦しく思っているのよ……」
 ポワソンがうなだれながら、エテに全く的外れなことを語り出す。
「アヴニール王国の統治下に入るけれど、ハイネ村の再建には尽力するよ。君の故郷を再建させることを誓う」
 胸に拳を当てて敬礼の姿勢をとるポワソンだが、エテはそれをちらりと見ただけで、再び母の翼に顔を埋めた。
「……そんな誓い、いらないわ」
 くぐもった声で、エテは答える。
 今度は、ポワソンがベルトランに小突かれる番であった。
「故郷なんかあったって、嫌われ者の『常闇の口』が帰る場所なんか……どこにもないもの」
 エテの帰りを待つ者など、ひとりだっていやしない。

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