時の環

前編


 百年後に住む見知らぬあなたへ、最後の手紙を贈ります。
 こうしてあなたに手紙を書くのも、これで五度目になりました。最近では、時の経つのが随分と早く感じられ、こうして初めて言葉を綴った日のことが、まるで昨日のことのように思い出されます。
 あなたに手紙を書けるのも、今年で最後かもしれない。いつだって、そう思っていたはずでした。けれど実際にその日を迎えてみると、思った以上に寂しいものです。
 あなたはどうですか?
 少しでも、寂しいと思ってくれるでしょうか。
 そんなことを尋ねるのは、愚かしいことにも思います。けれど問わずにいられません。
 百年旧い私の言葉は、あなたの目にどう映るのでしょう。
 今すぐにでもお返事を頂きたいけれど、そうできない事が歯がゆく、一方で臆病な私には、唯一救いにも思われます。あなたの返事がないからこそ、こうして自分勝手に、そして素直に、ただこの私の思いを、綴ることが出来るわけですから。
 
 * * *
 
 ペンを一度置き、目を瞑る。明る陽の射すこの部屋は、今日も暖かな静寂に満ちていた。
 開け放たれた窓の外から、柔らかな風が吹き込んでいる。流れる小川のせせらぎに、鳥の囀る広い庭。都から幾らか離れたディリヤの地域のこの静寂を、タモナは心から愛していた。
(ああ、そろそろね、……)
 目を閉じたまま、心の中で呟いた。穏やかな光の中、その小さな呟きだけが、暗く厳かに縁取られている。けれどタモナは知っていた。その闇の色こそが真実の、タモナの居場所であることを。
(束の間の静けさは夢。彼が最期に遺してくれた、ほんの一時のゆりかごのよう)
 そっと目を開き、立ち上がる。小さな部屋から外へ出れば、彼女の老いた母親が、節くれ立った手をさすりながら糸を紡いでくれていた。
 皺を刻んだ彼女の目許が、「もう行くの?」とタモナに問うた。
(何の頼りも持たないこの人を、私はここへ、置いていくんだ。せめてほんの少しでも、恩を返せたら良かったのに)
 親不孝を詫びなければ。しかし言葉の見つからないまま、タモナはレンガ造りの家を出た。辺りを見回せば、すぐに目的の影へ辿り着く。
「フィア」
 呼べば、人影が振り返る。三つになったばかりのタモナの娘は、手に沢山の花を摘み、笑顔で母を振り返る。
「おかあさん。これね、おはなをね、フィアがたくさんつかまえたの。おはながあるとあるくなるから、ひつようだねって、おばあちゃんが」
 タモナもにこりと微笑んで、娘の話に耳を傾ける。そうして家の近くにある切り株へ、タモナがひょいと腰掛ければ、フィアがその膝によじ登った。
 二人で静かに、歌を歌う。広い庭に生えたラーミナの葉が、風に揺られて共にさざめき、その花穂がフィアの頬を、優しく軽やかに撫でていく。物音に気づき顔を上げれば、タモナの家の玄関へ、二人の男が訪れたのが遠目に見えた。
 紺青の詰め襟に金の徽章。獅子を象った柄を持つクレイモアを見れば、それが誰で、何のためにここへ訪れたのかは、言わずと知れたことである。
「いつかちいさなこのたねが、おおきなはなをさかせるとき、」
 小さな足を振りながら、体を揺らして歌うフィアの背を、ぎゅっと優しく抱きしめる。
 暖かい。柔らかな陽の香りが、タモナの胸を満たしていく。
(こんな束の間の幸せとも、)
 今日でさよならしなくては。
 タモナの老いた母親が、玄関先から顔を出す。そうして二人の男を見るや、厳かな様子で、そっとタモナの居る方を指した。
「フィア。お歌の続きは後にしよう。おばあちゃんのところへ行っておいで」
 タモナがそっと囁くと、フィアは母を振り返り、屈託なく笑ってみせた。タモナの膝からすとんと降りたこの娘は、花でいっぱいになった籠を手に取ると、小さな体で軽やかに、タモナに背を向け駆けていく。
「おばあちゃあん。おはな、たくさんつかまえたよー」
 明るい声が、遠のいていく。タモナがすらりと立ち上がれば、剣を帯びた二人の男が、恭しげに敬礼をした。
「お迎えに上がりました。影縫い(グリムザ)の、――タモナ・クラディエ連隊長殿」
 
 * * *
 
 今の私の暮らしについて、確か以前の手紙でも、お伝えしたことがありましたね。
 母と、私と、今年で三年目の春を見る、私の娘の三人家族。三年前、地図書き(ガラバード)であった私の夫が戦場で命を落としてから、私達はこの土地で、静かに暮らしていたのです。
 夫が亡くなったのは、娘が生まれる数ヶ月前のことでした。ですから私の小さな娘は、父親の顔を知りません。その上、もしも私が命を落とせば、この子は両親を知らずに育つことになるのです――。だから私は娘のために、娘の側に留まるために、この土地で畑を耕し、鶏を育て、今の生活を続けようと、必死にしがみついていたのです。
 それでも、生きるというのは難しいこと。結局私は『元の居場所』へ戻ることとなり、娘の元から離れなくてはならなくなりました。
 けれど私は、その事を悲観しようとは思いません。
 きっとこれは、胸に理想を燃やしながら、それをいつまでもくすぶらせている私へ、私の夫が課した試練なのだと、そう思えてならないから。だから私は慎んで、その運命に従おうと思うのです。
 あなたにはまだ、私の昔のことを、お話ししていませんでしたね。
 夫に会う以前の私は、アヴニール王国を支えるラーミナ騎士団に所属し、剣を振るって生きていました。
 
 * * *
 
「おい、見ろよ。英雄殿のご帰還だぜ」
「ああ、なんて凛々しいお姿だろう。ご覧、坊や。おまえもいつかあの騎士様達のように、立派に国の支えとなるんだよ」
 物珍しいものを見る、浮ついた市民達の声。祖国の領土拡大の為、難攻不落と謳われたミリア砦を陥落させたラーミナ騎士団の凱旋は、暖かい声援によって迎えられたが、その歓喜に湧いたいくつもの言葉は、戦いを終え他の騎士達に紛れて歩むタモナの胸に、一つの感慨ももたらさない。
 ラーミナ騎士団の一員であった父が、アヴニール王国を守るために戦い殉職した頃、タモナは八つの少女であった。当時のアヴニール王国は国力も低く、その土地を狙うファムニ王国とオリゾン公国の同盟軍に度々攻め込まれては、人々は生活を脅かされていた。だからこそ己の身を守るため、大切な人々を守り抜くために、男女を問わず人々は、国を支えるラーミナ騎士団にこぞって志願をしたのだ。
(それなのに、……)
 まだ十八の頃のタモナは、戦いへ赴く度、暗い戸惑いを募らせていた。北方特殊戦術部隊の一員として初陣を飾り、若年にも関わらず華々しい戦績を残した彼女は、憂鬱な想いに溜息を吐いた。
(確かにアヴニールは、……ラーミナ騎士団は強くなった。自国を守り、その上で、他国への侵略が可能になるほどに)
 そうして他国からの侵略に怯えていた人々は、いずれその恐怖を忘れ、他国を貶めたことによる恩恵に酔いしれるようになったのだ。
(それなら私の戦う意味は、……私の流す血の意味は)
 考える度に胸が軋む。しかしその鬱々とした想いを戦友達に告げることも出来ないまま、それでもタモナは戦いの中に身を投じた。そうして国のために戦い、国を豊かにすることこそが、ラーミナ騎士団に叙任されたタモナの使命であり、亡き父の想いを継ぐ唯一の方法であると信じていたからだ。
 そうしてタモナは着実に戦績を積み、騎士団の中でもその名を知られるようになっていった。幸か不幸か彼女には、それを為すための特別な『力』もあったのだ。
 影縫い――、ひと睨みで敵の自由を奪い、地に這わせ屈服させる、戦いにうってつけの能力が。
「ねえ、見て。影縫いよ」
「本当! 彼女、この前のグラック作戦の時にも、少数部隊で敵の領土に潜入して、敵将を討ち取ったそうじゃない」
「物静かでなんだか近寄りがたいけど、すらっとして格好いいわ。あれで男性だったら、私、積極的に話しかけに行っちゃうのに」
「あら。女の身であれだけの武勲をおさめているところが、格好いいんじゃない」
 お気楽な少女達の軽口は、煩わしさこそあれ、慰めになどなりはしない。
「影縫い? ああ、あの陰気な女のことだろう。あいつ、祝勝会にも参加せず、一体何をしてるんだか」
「大方、上官達に媚びを売るのに忙しいんだろうさ。女は良いよな。そういう手段があって。まあ、そうでもしなきゃ変わり者ばかりの特殊戦術部隊にいて、あんなふうに陽の目を見ることなんてなかっただろうけど」
「確かに。まああの部隊の中でも、影縫いの気味の悪さは他に類を見ないけどな」
 嫉妬深い他の隊員からの陰口は、むしろ、彼女にとっては居心地の良いものに思われた。
(占星術師(ドゥラハル)や風売り(サジバンナ)とは違うもの。人の自由を奪い、更には命までを奪う影縫い……。私自身でさえ、気味が悪い)
 けれど戦いの場において、これほど有用な能力が他にない事も、上官達が影縫いのタモナに何を求めているのかも、彼女はよくよく心得ていた。だから彼女は王国のために剣を振るい、むなしさを埋めるかのように、ひたすらに戦いの場に身を投じていた。
 そんなある日の事だ。
「タモナ。次の任務の前に、お前に会わせたい人間がいる」
 上官に言われ、向かった先は王都の技術者街(シシリス)であった。
「次の戦いではファムニ王国の要害、ゲーラ砦を落とす必要がある。オリゾン公国がファムニ王国の軍を支援し、同盟軍を維持し続けるのも、あの砦の存在があってこそ。この機会に、奴ら同盟軍の連携を絶たねばならない」
 北方特殊戦術部隊隊長のレガニサは堅い口調でそう言ってから、「とまあ、そこまでが上の言い分なんだが」と軽い様子で付け足して、タモナににやりと笑いかける。
「奴ら、その先陣は特殊戦術部隊で秘密裏に行え、方法は勝手に考えろときたもんだ。最近、手柄を俺達の隊に取られてばかりで他の部隊がひがむもんだから、扱いに困ってるんだろう。だがな、タモナ。俺は俺達の部隊になら、そんな無理難題でもこなせるもんだと思ってる。変わった能力持ちばかりが寄せ集められた部隊だが、やるときはやるって事をどんどんアピールしてやらないとな。……そこで、だ」
 この人間を訪ねて欲しい。そう話すレガニサに技術者街の地図を手渡され、一人その場へ向かったタモナは、しかし訪れた建物の前へ立ち尽くした。
 数々の同職組合(ギルド)が技術者達をとりまとめる技術者街は、どの区域も一定の秩序のもとに整えられ、管理された街であるとされていた。事実、街の大部分は噂に違わず区画ごとに、組織だった規律が見られるのだが、彼女が訪れた一画だけは、他とは様子が異なっていたのだ。
 煉瓦の欠けた古びた壁に、ひしゃげてしまった醜い窓。それはまるで廃墟のような建物で、人が使っているようには思えない。
――その地図へ記したところに、今回の戦いの鍵となる人間がいる。頭の切れは良いのに、少し変わった奴なんだが、お前とは、うまくやれそうな気がしてな。
 冗談めかせてそう言った、レガニサの言葉を思い出す。タモナはもう一度道をたどり、目的地が間違っていないことを確認すると、半信半疑ながらもその扉を叩いてみた。中からの答えはない。もしかすると、このおんぼろ小屋で働いていた人々はとうにとこかへ居を移しているのではないかとさえ思われたが、情報にさといあの上官が、そんなミスをおかすだろうか。しかしそれを最後にするつもりで、タモナがもう一度扉を叩こうとした、その瞬間。
「……、お客さん?」
 背後からしたその声に、タモナがくるりと振り返る。見れば大層な旅の荷物を背負った男が、きょとんとした顔でタモナのことを眺めていた。
「あっ、あー。そうだ、あれだ。騎士団の人が来るとかって、親方が言ってたな。ああでも、親方はレンスの港の方へ視察に行っちゃってて……。どうしよう。用件、俺が聞いちゃっても良いのかなぁ」
 タモナよりいくらか年上に見えるその男が、のんびりとした様子で、そんなことを口にする。タモナはレガニサから預かった地図を確認し、そこにメモされた人物の名を見ると、「あの」と恐る恐る言葉をかけた。
「ラーミナ騎士団北方特殊戦術部隊、レガニサ・ルーラ隊長からの依頼事項をお伝えに参りました。タモナ・ミディルと申します。フェデル・クラディエ様は、その、レンスへ行っていらっしゃるのですか?」
 聞けば、目の前の男ははっとした様子で口を開け、にこりと穏やかに笑ってみせた。
「なんだ。俺を訪ねてらっしゃったんですか。フェデル・クラディエは俺のことです。タモナさん、お会いできて光栄です。影縫いの貴殿のご活躍は、俺も、よく耳にしています」

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