空吹きの凪

うそぶきのなぎ


 白縄に結びつけた風の一切れ(フィラーサジ)を、そっと解いて逃がしてやる。自由を得た風がひゅるりと明るい音を立て、耳元を掠め去っていくのを聞いて、ニケは小さく微笑んだ。
 ムーラの掴まえてくる風は、いつも穏やかで御しやすい。他の隊員達がそう話すのを、ニケは大概不思議に思って聞いていた。あの人懐っこい少女が売る風の一切れはどこか気まぐれで、風売り(サジバンナ)に似てお転婆だ。その証拠に今日の風も、解くなり海風に戯れて、カモメたちを歌わせている。
 風を受けた帆が満ちて、船は心得たとばかりに、照る陽の下を駆けていく。しがみついた帆柱から遠い水平線に視線をやれば、じきに見慣れた灯台と、白い砂浜が見えてきた。
「碇を下ろせ! 上陸だ!」
「了解!」
 腹の底から言葉を返し、慣れた手つきで帆を畳む。ひょいと帆桁に乗り上げれば、物見台から望遠鏡を覗いていた片腕のガランに笑われた。
「お前のその身軽さは、まるで猿みてえだな」
「馬鹿言え、海に猿がいるもんか。どうせならな、俺のことは『鷹』と呼んでくれ。誇り高い『海の鷹』。うん、何度聞いても言い響きだ」
 言えば今度は甲板から、笑い声が聞こえてくる。「あーあ、またニケのタカ話が始まったよ」と応じたのは、先輩隊員のシディアである。
「はいはい、タカね。誉れ高い勲しの、『荒野の鷹』と同じタカ」
「シディア! わ、笑うなよ!」
「はは、悪いな。だが俺の知る限り、今回の船旅でも、鷹にふさわしい武勲を上げることは出来なかったみたいだな、ニケ隊員」
 にやりと笑ったシディアの後に、腹から笑う笑い声。聞いてニケは膨れっ面を隠しもせずに、帆柱へもたれ溜息を吐いた。
 ラーミナ騎士団、西域物資運搬部隊。十二年前に起こったハンディアナ沖海戦の功労者とされる負傷兵達を主な構成員としたこの部隊に配属され、新米騎士としての航海を終えたニケは、しかし何の達成感も得られぬまま、旅立った時と変わらぬ故郷の港を眺めていた。白い浜。透明な海。幼い頃から見慣れたその景色はあまりに貧相で、十三になったばかりの少年の目には、色褪せてしか映らない。
(こんなはずじゃなかったのに)
 心の中で、呟いた。
 先輩騎士達が次々と、船内の物資を埠頭へ下ろしていく。手伝え、と名を呼ばれ、するすると帆柱から下りながら、ニケはもう一度溜息を吐いた。
(俺は『荒野の鷹』のような誇り高い戦士になりたくて、ラーミナ騎士団に入団したんだ)
 その為に内地の士官学校に通い、入団試験に備えて苦手な勉強だってやってのけた。けれど自分を取り巻く現実の、なんと夢から遠いことだろう。ハンディアナ沖海戦で勝利をおさめ、制海権を確実なものにしたアヴニール王国の海は平和そのもので、こんな片田舎の物資運搬部隊にいたのでは、手柄をあげようにもちっとも機会がないのである。
 波に揺られ、海峡を渡り、アヴニール西域の港を巡って物資を届ける。気まぐれな海に翻弄されることこそあれ、ニケが憧れた理想の『騎士』の暮らしとは、似ても似つかない毎日だ。その上に、ハンディアナ沖海戦を経験した先輩隊員達にはいつまでもひよっこ扱いをされるのだから、たまったものではない。
(せめて、海賊でも出てくれたらなあ)
 そんなことを口に出したら、またムーラに叱られるだろうか。丸顔の頬を膨らませ、息を巻く幼なじみの姿を想像して、ニケは三度溜息を吐いた。

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