足下に 暗い
朱の咲く

後編


「どうせ血を啜るのなら、王国の血を啜って果てたい」
 ぼろを纏った軍人が、そう、思いを結論づける。
 靴に釘を打ち付けながら、アクバルはただ、彼の話を聞いていた。しかしぽつりと、呟くように、こう話す。
「軍人さん。私は、あなたの疑問に答えを出すことは出来ません。しかしあなたは、確か先程、靴の色が黒ければ、それがどんなに血を吸っても、気に留まらないだろうと仰いましたね」
 「ああ、そうだ」と、力無い答えが耳に届いた。
 アクバルの釘を打つ音が、等間隔で室内に響く。
「……、それは、違うと?」
「ええ。私はそうは思いません。靴に血の色が目立たずとも、あなたが血を踏めば踏んだだけ、あなたの足跡は血の色に、きっと彩られるのです。そして流れた血の色は、王国の血も、あなたの血も、皆同じに朱の色なのです」
 「そうか」と、彼は笑って頷いた。「ああ、そうに違いない」
「ですがあなたが望まれるなら、せめて靴だけでも、足跡の残りにくいものをお作りしましょうか」
「そんなことまで出来るのか?」
「やろうと思って、出来ないことなどありません」
「自信家だな」
「私は、とても腕の良い靴屋ですから」
「ふてぶてしい奴だ」
「よく、言われます」
 
 * * *
 
「靴屋さん、私はきっと、兄を殺すべきではなかったのですね。兄の言葉を信じて、兄の思いを受け入れて、残った僅かな民だけででも、新しい土地を探しに行くべきだったのです。そうすればせめて、私は兄のことだけでも、失わずに済んだのだわ、……」
 エルハームの声が静かに、夜に紛れてそう呟く。ようやく嗚咽を噛み殺した彼女は、身を丸めてソファに座り、釘を打ちながら昔話を語るアクバルの事を、遠目にぼんやりと眺めていた。
「正しい道を歩もうとしたのが兄で、誤った道を歩んだのが私……。私の足跡にも既に、兄の血が染みこんでいるのでしょう」
 聞いて、アクバルは少し目を伏せる。しかし彼のその仕草は、エルハームの言葉を肯定するものでも、否定するものでもない。
「足跡の残りにくい靴を、作りましょうか」
「兄は、それを選ばなかったのでしょう」
「ええ。けれど迷っておいででした。それがあれば人目に付かずオルメニオの郷へ帰って、妹だけでも攫って逃げることができるかもしれない、と言ってね」
 それを聞いたエルハームは、初めて小さく、笑ってみせた。その瞳には今も大粒の涙が絶えず溢れており、蝋燭の灯を受けたその透明な水滴はしかしきらきらと、闇夜の中に輝いて見える。
「兄はあなたに、どんな注文をしたのです?」
 エルハームが瞬きすると、水滴がまた光の線を作り出す。
「お兄さんは、そこまでは話されなかったんですね」
「ええ。ただこの靴を作った職人に、誰かを傷つける以外の道を示してもらったのだ、とだけ」
「私は、そんな大層な事はしていません。あなたのお兄さんは、ここへいらっしゃる時には既に、疑問と答えをお持ちでした」
「だけどその背を、……黒靴のアクバル。あなたが押したのでしょう」
「おかげであなたの恨みを買った」
 嫌みのない様子でアクバルが言うと、エルハームはそっと顔を上げ、「ごめんなさい」とそう零した。その目はただ真っ直ぐに、アクバルの方を見つめている。
「最初にお会いしたときにも思ったけれど、……あなたは、とても不思議な目をしていらっしゃるのね」
 アクバルは答えなかった。ただ打ち掛けの靴を持ち上げ、蝋燭の灯りに照らしてみせる。
 今度の靴も、またなかなかの出来映えになりそうだ。
「あなたのお兄さんは、私に、こんな靴を望まれました――」
 
 * * *
 
「新しい土地を踏みしめるための靴が欲しい」
 そう語った男の声は、確固たる意志に満ちていた。
「この両足は既に、数えきれぬほどの他人の血で染まっている。自業自得だ。俺は己の故郷のために……、いや、ただ俺自身の命を存えるためだけに、他人の血を踏みにじってきたのだから。今までやってきたことが、正しかったにせよ、誤りだったにせよ、それを後悔しようとは思わない。だがこれが俺自身の道ではないと気づいた以上、もう、今までの道には戻らない。戻ろうとは思わない」
「それで、『新しい土地を踏みしめるための靴』ですか」
 アクバルが言うと、彼は遠い目をして、またぽつりと呟いた。
「自分勝手な奴だと、そう思うかい」
 男が自嘲気味に笑うので、しかしアクバルはただ首を横へ振って、彼の為の皮布へとはさみをあてた。
 
 * * *
 
 やがて陽の照る時刻まで、アクバルとエルハームの二人はただ訥々と、素朴な会話を楽しんだ。
 そうして最後にアクバルは、彼女の小柄な足にあう、羽のように軽い黒靴を贈る。
 
 * * *
 
「王国の首都、ラジールへ行ってみようと思います」
 エルハームがそう言うのを聞いて、アクバルはにこりと微笑み、頷いた。
「兄のしてきたこと、兄の見てきたもの、それらを私も、知りたいのです。それが、兄への罪滅ぼしになるとは思っていません。けれどそうしてからでなければ、私は、……私にとっての新しい土地を、進めそうにないものですから」
 泣きはらした目で、しかし靴屋へ訪れた時とはうってかわった穏やかな声音でそう言って、エルハームがそっと頭を下げる。「最後に一つだけ」彼女がそう呟いた。
「最後に一つだけ、教えてください。あなたは何故、黒い靴しか作らないのですか?」
 問われて、アクバルはやはり微笑んだ。そうして彼女の耳元へそっと唇を寄せ、静かにそっと囁いた。
「靴の主の歩む道が、他人に色づけられることのないように」
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